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見沢知廉の思想と行動 〜『民族派暴力革命論』を読む

 赫々と燃える空をめがけて翔び立った。
 身を削り、血を絞り、放たれた叫びを遺して。
 彼はついに理解されなかった。

はじめに
 見沢知廉の死について、それが文学によるものか政治によるものか、本稿では語る能力をもたない。むしろ彼にとって、政治と文学は不可分だったのではないか。本稿は、その一体不可分であるところの見沢知廉の政治と文学を、主にその政治思想に焦点をあてて考えてみたいと思う。
 見沢知廉は獄中で文学賞を受賞した。出所後は三島賞候補に挙がるほどの純文学作家として活躍する。見沢文学に一貫するテーマは、監獄と、収監にいたる彼自身の政治行動であり、そして行動を導く世界観であった。見沢知廉はなぜこのような人生を生きたのか、なぜこのような作品を書き続けたのか。いまを生きる我々にとってあまりに重たい問題であり、かつ、無視してはならない課題であると確信するがゆえに、私は本稿を書く。


1.「ドロップアウトは、破壊に向かって進攻する」

 ドロップアウト――即ち非行少年。社会の外れ者。見沢知廉は自己の出発点を、ここに置いた。彼はドロップアウトを「最下層の被抑圧階級」ともいう。見沢知廉のいうドロップアウトは、労働者階級のさらに下に位置する「ルンペン・プロレタリア」である。そしてその階層こそが、社会変革の起爆剤になると考えていた。
 『民族派暴力革命論』――そう題された薄い冊子を、見沢知廉の死後、私はある人から譲り受けた。見沢知廉自身、いくつかの作品でその存在を示唆していた理論書である。この冊子は、主に見沢知廉が投獄される前と投獄された直後に書かれた政治論文をまとめたものであり、私が入手したのは「第二版」――満期出所後の本人による訂正を経て重版されたものである。目次によると、初出は『義勇軍報』『レコンキスタ』などとなっている。前者は統一戦線義勇軍という、一水会の実動部隊の機関誌であり、後者は一水会の機関誌である。一水会は見沢知廉の関わったスパイ粛清事件をひとつの契機に、その活動の路線を合法一本に絞るようになったともいわれる。
 その薄い冊子に、「ドロップアウトの方向性について」という記事が収録されている。この記事は見沢知廉を文学的な側面から研究するのにも重要だが、本稿では極力、見沢知廉の構想していた政治理論を整理していくようにしたいと思う。
 見沢知廉は自己の幼少時代について多くを語っていない。自ら作成した年譜(『日本を撃て』巻末)に、15歳で「ヤンキーの友達の影響から非行へ。万引き、パチンコ、車両破壊などをする。既成右翼の手伝いも」とある。非行の直接の原因は、一説に家庭崩壊があったともいわれるが、ここで論じるべきは見沢知廉がそのような自己の境遇をどのように位置づけていたかだろう。「ドロップアウトの方向性」には次のような記述がある。「<非行>の原因を、<しつけ>や<ビタミンD>に還元する日本低能文化人、マスコミ、教育者については、これを論ずることさえ舌がけがれる思いである。<甘え>が<非行>の原因だとは笑わせる。我が超管理社会において法を犯す事がいかなる危険を伴う行為か、ぬるま湯育ちのジャーナリストや文化人諸氏には死んでも判りはしないであろう。(中略)この様な階層、存在が産まれ、そして更に産まれ行くだろう事は避けられえない現実以外の何ものでもない日本文化人の低俗な判断は言うに及ばず、いかなる高度な<非行心理学>も、この人類において本質的な動き、 エネルギーを<治療>=ストップさせることなど絶対に出来ないはずである」。
 過度な資本主義経済の普及は、アメリカを見るまでも無く社会階層を二極化させる。日本においても「総中流意識」から富裕層と貧困層への二極化が進んでいる、と見沢知廉は見ていた。そして、日本の社会構造にある「独創的頭脳が切り捨てられる」(「ドロップアウトの方向性について」)傾向を激烈に批判したのである。
 そして、そのようなドロップアウトのエネルギーを活用することで社会変革が可能であると考えていた。「ドロップアウトの方向性」の最後はこう締めくくっている。「ドロップアウトは、破壊に向かって進攻する。それは新しい時代のスチヒーヤ性である。右翼がそのエネルギーをいかに活用できるかで、日本の将来は決まる」。


2.「赤軍以来の左翼は、能動性を喪失してしまった」

 見沢知廉を政治活動の座標軸で考えたとき、既成右翼(15歳)→新左翼(18〜20歳)→新右翼(21歳〜)という変遷を見ることができる。しかしはっきりといえることは、根本的には見沢知廉は変わっていないということだ。見沢知廉には、固定概念に捕われずに本質を追及する特性があったのではないだろうか。ウイングを移動しても、両派の長所と短所をそれぞれ指摘し、いずれも全否定することが無かった。事実、『民族派暴力革命論』所収の「初級革命入門講座」には赤軍に学べ、という論が展開されている。「<赤軍>は一片の<詩>だった。激烈に生きた、例えそれがいかなる行為であろうとも永劫に街々に、呪いの様にこだまするのだ」(「初級革命入門講座」)。
 高校で試験用紙を突然破り、教壇に立って教育批判演説を行い、退学させられた見沢知廉は新左翼過激派に誘われる。そして1978年、成田管制塔事件(開港反対闘争)に参加し活躍、「武力闘争で社会が変わるという幻想」にとりつかれた、と自ら述べている(『日本を撃て』巻末)。
 しかし新左翼運動は見沢知廉を満足させることができなかった。新左翼に「人間味がなかった」という証言も原因を知る上で重要であろう。さらに考えるべきなのは、見沢知廉の時代認識である。「今、起こっている右翼の潜在的増加の唯一の原因は、第二次石油ショック以後に起こった非マルクス的な階級の分化によるものである。マルクスが顔をしかめる<ルン・プロ>及びその可能態的な没落中流階級の大量産出化により、<つっぱり>が大衆化され、それがそのままヴァイマール共和国の様に右翼の側に<憧れ>=<ファッション>としての興味を深く抱きつつ存在している」(「新右翼の思想と軍事の周辺」)。さらに「新左翼軍事論の批判」として次のように述べる。「例えば、左翼は<アジア人民>の名において企業や軍を否定する。しかし我々は、まさに<アジア人民>の為に、その企業や軍と手を結ぶ可能性を宣言する。(中略)むしろやるべきなのは、この<目的のない>刃の柄を握る事であると考える。(中略)米中ソを地上から殲滅しない限り、<アジア人民>の解放などあり得ないのである」 (「新右翼の思想と軍事の周辺」)。
 「かつて左翼は堂々と革命を掲げ、インターナショナルを叫び、現実的な近未来の展望として――レーニン的な、党と軍の関係を喜々として論じ、今、まさに理想=ヴィジョンをこの手で創出するぞと意欲と夢想に満たされていた。(中略)その情熱的な瞳は哀れにも消滅し(中略)能動的な燃えたぎる様な強烈な意志によって裏打ちされた現象解釈ではなく、現象解釈にズルズルとひきずられるだけの運動に埋没しているだけじゃないか」「赤軍以来の左翼は、能動性を喪失してしまった様に見える」(「新右翼の思想と軍事の周辺」)
 見沢知廉は革命を求めていた。その革命とは、現在の左翼のように「日本軍国主義を批判」することではなく、現在の右翼のように「支那朝鮮を敵視」することでもない。アメリカやかつてのソ連や、中華思想などの帝国主義を打倒することであったのだ。いわゆる、「反グローバリズム」と読むことも可能であろう。そして見沢知廉は、そのような民族自決革命の可能性を冷静に分析していたのである。


3.「一切は空しい。由に一切は許される」

 『民族派暴力革命論』に所収された「常識の超越について」という一文は、かのスパイ粛清事件を考える上でも極めて重要である。確かに見沢知廉は殺人を行なった。このことは消せない事実であり、歴史の一幕である。この殺人行為について、見沢知廉は晩年まで一種のトラウマとして悩まされていた。文学的にも見沢知廉の「ペルソナ」との葛藤を掘り下げる作業は重要であろう。しかし、逮捕まもなく見沢知廉は東京拘置所にてひとつの政治的回答を出している。それが、常識の超越、である。
 見沢知廉は言う、「一般大衆は、言わば時代時代に扇動される受動者であるが、<前衛>は能動者だ」(「常識の超越について」)。見沢知廉にとって能動的であるということは確たる信念ですらあった。見沢知廉の言う、超えるべき常識とは善悪の定義である。見沢知廉はあくまで政治犯であった。つまり、(快楽や強盗などの)犯罪目的の犯罪ではなく、政治目的の結果としての回避できなかった行為であった。その行為を全面的に否定されることは、自己の政治目的、政治思想を否定されることになる。そのため彼は裁判において、その政治性を徹底的に主張し、逆に政治性を認めない検察側の無期懲役求刑に対して、懲役12年を勝ち取ったと言う。
 「平和な時、一般大衆の<常識>は、人を殺してはならないということを頂点とする。戦争の最中、一般大衆の<常識>は人を殺すべきだという点に凝縮する」(「常識の超越について」)そのような、時代によって変わってしまう価値観、常識から解き放たれること、超越した価値基準を持つことが、社会変革者や為政者に必要である、というのが見沢知廉の考えである。さらに彼はこう言う、「<前衛>にとって、<常識>などというものは、したがうものではなくて、創造して然るべき物なのだ」(「常識の超越について」)。必要であれば殺人をも肯定する、極めて危険な思想である。しかし見沢知廉の指摘は、真実をついているではないか。我々は確かに平和な時代に生きている。しかしこの平和な民主主義政体下で、我々は日々殺人に手を汚している。「死刑」という名の殺人を。その自覚がない者は民主主義を知らぬ者であろう。かつて、「どうして人を殺してはいけないの?」という子供たちの問いに、大人は答えられなかった。大人たちは、それを「常識」として無批判に受け入れているにすぎないからだ。そのような大人たちは、常識が 「人を殺さなくてはいけない」に変わったら容易に人を殺すだろう。常識に従うというのはそういうことであり、常識は非常に脆いものである。社会の底辺を体験していた見沢知廉は、そのような思想を持ち、いざそれが必要となったとき、易々と実行してのけた。革命の先駆者たらんとするが故に。
 「我々の時代を見るがいい。そこに横たわっているものは何か?――永劫に続く虚無、虚無の神殿ではないか?――客観的精神に過ぎないものが、いかに妄信されていることか。(中略)何一つ、正当な権威がない。何もかもが見事に仮象である」(「常識の超越について」)。常識を否定することからすべてが始まる。そこから、能動的な生が始まる。そして常識を乗り越えた者のみが、新しい常識=規範・価値観を創造できるのだ。「歴史を動かしてやろうと欲する者は、少なくとも悟らねばならない。一切は空しい。由に一切は許される。――という、この達観をである」(「常識の超越について」)。


4.「世界観に勝利できるのは、世界観のみである」

 民族自決であるとか、民族主義と言ったときに、人は「内向きな、視野の狭い」印象を持つかもしれない。あるいは江戸時代の鎖国、幕末の攘夷の「外的交流拒否」のような・・・。保守思想や民族主義に、そうとられても仕方ない側面が、確かにあるのかもしれない。しかし少なくとも見沢知廉の政治思想は、そのような域を軽々と超えていたのである。この点が、私が見沢知廉の政治思想に特に惹かれる所以なのだ。
 世界観とは何か?一言で言い換えるなら、それは理想社会の展望であろうと思う。ユートピアの実現を企図しない政治は、政治の目的化に過ぎない。何でも反対するしか能の無い反体制左翼、恫喝するしか能の無い体制べったり右翼、そのような矮小な政治活動を、見沢知廉は忌み嫌ったのである。人類の新しい世界を創造することが、政治の使命なのだ。
 「全ては一定の条件の上にのみ成立している。我々がタブーと信仰し恐れるものでさえ、パンセではないが<河一つへだてれば、法はさかさま>のニヒリズムに過ぎない訳である。LSIが一つ故障すれば、我々の生活する<一見穏健な平和世界>は見事に崩壊する。全てに渡って潜在的に存在する<恐怖>。ちょっとした自然の気まぐれで、我々の<文明>は一瞬にして滅びさえするのである」(「世界観の解析」)。見沢知廉は世界の崩壊、人類の危機を恐れない。むしろ危機は自明の所与である。危機は必ず訪れる。問題は、その先を想定して準備することである。
 「つまり、その<世界観>は形而上学的普遍的哲学性を有していて、それがユートピア的な現実的<夢>を実現させるものとして展開され、それが由の手段として形而下学的に実行可能な戦術的解釈パターンが提出され、由にその両者(形而上学と形而下学の両方の場)を満足させるものとしての段段的な予言と敵と設定と国際的対応が提示されなければならない」(「世界観の解析」)。むしろ危機こそが、革命の好機である。体制が腐敗するとき、権力者は危機対処能力を失う。それまでの常識が崩壊する。見沢知廉はこうもいう、「経済破綻からのみ、革命は生まれる。問題は、それをいかに予言的に解釈するかだ。歴史上のいかなる<恐慌>も、多種多様の契機が複雑に絡み合ったものであって、一言で説明のつくようなものは一つとしてありえない。――が、革命をする為に予言を行なう者は、その解釈を宣言しておかなくてはならない」(「世界観の解析」)。見沢知廉の思想は新しい。いままさに、この日本にとって、見沢知廉の指摘は恐ろしいほどに的確である。我々は、日本経済の破綻を目前にして打開策を持たないのだから。
 見沢知廉の完成させた政治的プログラムは次のようにまとめられている。「まず非合理主義=牧歌的な最終的理想世界の概念を掲げる。由に西洋合理主義、疎外された機構は敵だ、と宣言。LSIが社会を破壊し大衆からパンを奪うぞと予言。→社会の崩壊(なぜならばLSIに代表される合理主義的機構等がいつか決定的に機能しなくなるから)。その瞬間において爆発する大衆の獲得。政権奪取→民族の<機能する>合理化。過渡的段階としての資本主義的本質の(国家統制下による)徹底機能化。再軍備。非機能的な一切のムダな慣習の排除と抹殺。核、テクノロジーの徹底活用。テクノラート、学者の国家養成。秘密保持の法制定と情報機関の設立。過渡的段階における大衆への幸福附与としてのコンピュートピアの実現。エネルギー問題の為の、海洋ゲオポリティクス。→アジアへの<世界観>の輸出。オセアニア、オーストラリア等、実質上白人の植民地に対する派兵。第三世界のヘゲモニー確立。米中ソを包囲する世界三分極的ゲオポリティクスの実行。→米中ソの殲滅。植民地、新植民地的支配の破壊。黄白人種と黒人の民族的自決権の確立。 →世界の統合。そして非合理的地域共同体的理想社会の建設へ」(「世界観の解析」)。
 かつての日本人は、世界観を持っていた。その一つが、白人の植民地支配からの解放、その先の差別撤廃社会である。明治維新以来一貫して日本は国力を蓄え、実力をつけるべく勤めた。しかし、間に合わなかった。白人の世界支配に抵抗できる実力を完成させる前に、アメリカの策略によって開戦に追い込まれ、ついに決起したのである。そして、日本は敗れた。その後、東南アジア各国は独立を果たし、アフリカ諸国も一応独立した。しかし、依然として旧宗主国の影響は強く、さらにアメリカ発のグローバル市場原理主義が巧妙に世界を支配しようとしている。南北格差も、自由競争の名の下に誤魔化され、アメリカ国内においてさえ経済的敗者の奴隷化が進んでいる。そしてテロ撲滅の名を借りた超管理社会化…。我が国ではアメリカに媚へつらう首相がヒットラー的手法で独裁を進め、日本国民の財産を国際金融資本に売り渡し、人権擁護の衣装を借りて独立派の言論を封殺しようとしているのである。
 見沢知廉の予言した社会情況は確実に訪れつつある。彼は、早すぎたのだ。
 「思想。――を我々は展開せねばならない。政治を軍事に優先させる以前の問題として、哲学を政治に先行させなければならない。(中略)ヒットレルを引用するまでもなく、世界観に勝利できるのは、世界観のみである」(「武装闘争に決起せよ!」)。


5.「破壊と殺戮だけを残して、一陣の風の様に去った」

 日本に住む私たちにとって、見沢知廉とは何だったのか。もしかしたら、すぐに忘れ去られるかもしれない。あるいは、再評価され大きな影響力を持つようになるかも知れない。いずれにせよ私は、見沢知廉の凄さを伝えて行きたいと思っている。故人の政治的意図を正確に伝承するというようなことは、難しいことであるし、不可能かもしれない。私のような見沢解釈が間違っているという指摘を、あるいは受けるかもしれない。それでも良いと思う。見沢知廉はあまりに過激で、突飛で、早すぎた。生前に、真に見沢知廉を理解できた人がどれくらいいただろうか(私が理解しているといいたいのではない)。理解できたとしても、何もできなかっただろう。そして、見沢知廉が何故あのような死を選んだのか(自殺の意思があったのかさえ、厳密には不明だが)、まったく解らない。永久に解らないかもしれない。しかし、だからこそ、見沢知廉を知りたいという欲求に突き動かされる。
 見沢知廉がこの『民族派暴力革命論』を書いた時代、彼自身が政治犯として投獄された時代は、どのような情況だったのだろうか。1982年、見沢知廉が23歳のとき、米ソの対立は激しさを増し、イギリス・フランス・支那などが核武装を進め、日本国内においては自虐史観が全盛を極めようとしていた。新左翼の非合法路線は急速に力を失い、新右翼の側に少しずつ若者が流れつつあった。見沢知廉も当時は清水浩司と名乗り、一水会の影響下にあった統一戦線義勇軍主要メンバーとして活躍していたが、12年間の服役後は文筆活動にウエイトを置いている。実力行使の非合法活動はしなくなったものの、右翼バンドをプロデュースしたり個人的に若者を集めて教育しようとしたりしていた様子はある。ウェブサイトにも「電脳松下村塾をやりたい」などと書いていた。そのような中でも、この『民族派暴力革命論』は見沢知廉自身にとって根本理念になっていたのではないだろうか。この書はあくまで新右翼活動家に向けて書かれたものであるから、一般刊行には適さないのかもしれない。また、実際の政治運動にどれだけ影響を与え得たのかも不明である。 しかし、これから我が国が混乱と衰退を向かえることが確実視される中で、重要な指針の一つとなり得るのだということを、私は言いたいのだ。
 「我々は、多くの<美>を知っている。小沼正、来島恒喜、朝日平吾、そして三島由紀夫、斉藤和――その、光彩陸離たる魂の輝きの中に見出される概念は、もはや"右"でもなければ"左"でもない。玲瓏の"美"であり、"ロマン"の芳香なのだ。究極の人生、瞬時にして燃え尽きる至高の魂は、一片の<詩>である。(中略)<破壊と殺戮だけを残して、一陣の風のように去った>――さあれならば問おう。それが何故悪い?(中略)要は、時代が早すぎたというだけの事だ。(中略)が、今は違う」(「中級維新革命入門講座」)。ここでいう、<破壊と殺戮だけを残して、一陣の風のように去った>とは、日本赤軍の壊滅に際しての某ニュースキャスターのコメントである。見沢知廉は多くの文章を残した。しかし彼はついに理解されなかった。生きた時代が、早すぎたからである。
(平成17年10月30日・朱斑羽) ※本稿は ウェブマガジン月刊核武装論に掲載したものの再録です。


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