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[見沢知廉の略歴]

1959年(0 歳)

東京都文京区千駄木に生まれる。父親は芸能プロダクション経営、祖父は元新聞記者、祖母は助産婦。

1965年(6 歳)

親はエリートコースを想定し、越境入学で進学率の高い小学校へ。

1969年(10歳)

この頃はガキ大将。ボーイスカウト、習字、オルガンなど習い事多し。

1970年(11歳)

ヒトラーの『我が闘争』を読み、衝撃を受ける。中学進学に備え受験勉強。

1973年(14歳)

早稲田中学に入学。フィギア、モデルガン、切手など多くの趣味に没頭。

1974年(15歳)

ヤンキーの友達の影響から非行へ。万引き、パチンコ、車両破壊などをする。既成右翼の手伝いも。

1975年(16歳)

早稲田高校へ入学。

1976年(17歳)

第2次石油ショックで父親の会社が倒産。進学校になじめず登校拒否。バルザックやドストエフスキーなどの小説を読み、自分も人を救う作家になることを決意。

1977年(18歳)

高校2年、学期末試験で教壇に上り、試験用紙を破り「教育批判」の演説。退学処分。新左翼のクラスメイトがいてセクトに勧誘され入る。彼と共に教室を破壊。定時制の高校に転校し、暴走族に入る。

1978年(19歳)

3月、中央大学法学部入学。成田「3・26管制塔闘争」に参加。「生きて帰れない」と感じ、処女小説『回転』執筆。新人賞へ投稿。闘争は激しいゲリラ戦で勝利し、武装闘争で社会が変わるという幻想にとりつかれる。新左翼セクトのアジト専従になる。

1979年(20歳)

新左翼の東京サミット決起集会中止に失望し、セクトを止め、一年間部屋へ閉じこもり小説を書き勉強に熱中。

1980年(21歳)

11月第10回憂国忌(三島由紀夫追悼会)への参加をきっかけに新右翼に入る。

1982年(23歳)

初頭、新右翼の最過激派の連合体である「統一戦線義勇軍」とその中核「一水会」へ入る。 機関紙の発行や組織化をし、武装闘争を指導。義勇軍書記長、一水会政治局長に就任。ロシア大使館、アメリカ大使館攻撃などのゲリラ活動。 フォークランド紛争勃発後、<有色人種対白人><反英米>を掲げ、イギリス大使館を攻撃、火炎瓶で放火。犯行声明をもみ消され、4人の要人テロを計画。 警察は24時間尾行しアパートローラーをかけ、スパイを送り込む。9月、同志9人と共にスパイを査問し、粛清。富士樹海へ遺体を埋める。メンバーの3人は逮捕され、1人だけ全国指名手配の警備網をくぐり抜け、神奈川県に逃走。 9月27日、出頭し逮捕。11月東京拘置所へ。その後、政治論文と小説を執筆。

1983年(24歳)

3月裁判結審。求刑は無期懲役だったが、最終弁論で「政治的な事件」の主張が認められ実刑12年。川越少年刑務所を経た後、千葉刑務所へ移送。

1986年(27歳)

刑務所での反抗始める。出所まで、看守の目をかいくぐり、執筆活動。母親が清書し文学賞に応募。5月頃、昼夜独居専門舎の「11舎」へ。この頃『民族派暴力革命論』を小部数刊行。

1988年(29歳)

昭和天皇崩御。恩赦は出ず。7月頃反抗のため、八王子医療刑務所へ。

1990年(31歳)

千葉刑務所の11舎へ戻る。コスモス文学賞を受賞。

1991年(32歳)

獄中決起未遂。執筆禁止などを巡りハンスト(絶食)。39キロまで痩せる。

1994年(35歳)

春より、本省派遣の幹部、看守などに拷問の限りをつくされる。小説執筆もまた、禁止となる。10月、新日本文学賞受賞。12月8日満期出所。

1995年(36歳)

出所後メディアに登場。12月、受賞作『天皇ごっこ』(第三書館)を刊行。

1996年(37歳)

2月『囚人狂時代』(ザ・マサダ)を刊行し、8万部のベストセラーに。

1997年(38歳)

政治活動を休止し、執筆に専念。6月『獄の息子は発狂寸前』(ザ・マサダ)、12月『調律の帝国』(第三書館)を刊行。この頃連載は「群像」「文学界」「別冊宝島」「週刊プレイボーイ」「BURST」「創」「テアトロ」「GON!」「BUBKA」など。9月には劇団「第三エロチカ」が、これまでの半生を題材に『オイディプス、WHY?』を上演。

1998年(39歳)

三島由紀夫賞候補に。父親が逝去。11月、立教大学の講演中に卒倒。以来、入退院を繰り返す。

1999年(40歳)

秋、2ヶ月近く入院。

2000年(41歳)

コラム集『日本を撃て』(メディアワークス)を刊行。

2001年(42歳)

『テロならできるぜ 銭湯は怖いよの子供達』(同朋舎刊)、 『蒼白の馬上』(青林堂刊) 『極悪シリーズ』(雷韻出版刊)を刊行。

2005年(46歳)

9月7日、横浜市戸塚区の自宅マンション8階から転落し、死去。暫くして遺書が見つかる。 戒名は夢翔院仁哲究廉居士。光源寺に葬られる。
同年、作品社から『ライト・イズ・ライト』『七号病室』を刊行。新潮11月号に『愛情省』(遺稿)掲載。

※この年譜は『日本を撃て』巻末年譜を参考にし、管理人が加筆訂正したものです。今後も加筆していきます。


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