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現代の特攻隊を生きた人――――見沢について記録しておくべきこと・・・・・・塩見孝也

(一)
 作家、見沢知廉が亡くなってから、既に2ヶ月余が過ぎました。
 この間、幾つかの彼の追悼会が持たれました。彼のことが、いろいろ語られる中で、沢山、知らないことを知ることとなりました。
 僕も、亡くなってすぐに、追悼文を書いたのですが、改めて、彼のことを記録しておこうと思うようになりました。
 小、中、高時代、家庭と両親、母堂、ヤンキー時代、大学時代、新左翼某党派時代、"スパイ""粛清"事件に至る「一水会」参加時代、12年間の獄中時代、出獄してから3〜4年間の猛烈な政治・作家活動期、その後の薬病禍の「低迷」期……。彼の生い立ち、人生の軌跡も大体分かってきました。
 世間の人々は、誰それのことは、自分が一番よく知っている、と思い込みがちですが、大体、それは、高々、ある時期、ある目的に関しての認識に限られ、後は大雑把な輪郭程度で、知っていると思ったのは、その人物の、切れっ端程度、というのが往々のことであります。
 自分のカミサンすら、知っていないのが実情であろう。
 随分と、危ういものです。
 そもそも、何を持って"知る"とするか、が問題となろうし、敢て、僕が「知っている」とすれば、僕の思考のレンズに合い、エモーションの核に触れ、「この人は、こういう人なんだ」という、認識の核が生まれた時のことだと思います。
 この限りでは、僕の彼への認識は生前も死後も、殆ど変わりません。
 優男の繊細な体、神経ながら、糞度胸があり、突っ張りきってしまう男、普通の人が、深刻に逡巡する一線を、軽々とポンと越えてしまうこと、超観念的なインテリゼンスを持ったラジカリスト、組織などは作れないし、本当はそれを嫌がる男、そのくせ、「マルマル軍」総裁、とか、権威主義者でないから、逆に、やけに格好には拘りも示す、女性には大もてするが、最後の内心の一線には寄せ付けない男、ナイーブで結構な恥ずかしがりや、都会育ちのせいか、都会の闇、裏、病んだ世界もよくわきまえている男……、結局は、ドジ、は茶目茶、ずっこけ、時には誇大妄想、無頼の坊ちゃん、で愛すべき男、面白くもなんともない男の反対の種類の男、こんなところなのです。
 僕は、彼を思い起こすたびに「伴妻」主演の「伴髄院長兵衛」に出てくる高橋貞二演ずる「白井権八」が浮かびます。美人芸者に大もてするのですが、結構、軍師、参謀の才もあります。まー、天性の二枚目なのですが、彼にインテリ性を加え、「寅さん」風にずっこけさせたら見沢になるのです。
 舌が短いのか、多少巻き舌で、さらさらと歯切れ良く語る、口吻が今でも蘇ってきます。

(二)
 しかし、この過程で、多少の見沢像の変更もあったことも確かです。
 一番、手助けとなったのは、彼の数冊の著作でした。
 「天皇ごっこ」「囚人狂時代」「調律の帝国」「ライトイズライト」、そして「愛情省」らです。
 これを、読み、彼が天性の表現者であった、ことを付け加えるべき、と痛感しています。
 世間の人々は、一般に見沢を、作家として見ていますが、僕の方は、そっちには、これまで、殆ど関心なく、「愛国者」「革命家」として、遇し、彼の方も、文学の方面は、全くおくびにも出しませんでした。
 僕は、亡くなってから、彼の作品を読み、その方面の、彼の一定のポジションを知り、それをこれまでの見沢像に合体させることで、彼の全体像を、より確かなものにしたわけです。
 世間の人々の「作家から、義の人へ」の認識方向とは、反対側から進んで、彼の全体像を知って行ったことになります。
 それにしても、見沢は、著作を上梓するたびに、せっせと献本してくれていたのに、ぱらぱらと捲って、そのままにし、読もうと思った時には、何処をどう捜しても見当たらず、の所業であったことを、彼にまず詫びておかなければなりません。
 結局、捜しまわった挙句、清瀬の図書館で見つける始末です。
 互いに夢中になって、「反米愛国」の「民族論」の「新しい位置づけ」とか、「資本主義の捉え方」とか、「政治構造の巨大な変容、階級関係の質的変化」とか、ネグりの「マルチチュード」だ、何々だ、フーコーだ、デリダとか、ニーチェだとか、ソシュールの言語学がどうのこうの、とか、30年代日本の思想史、とか話したものです。
 女の話は、ちょこっ、とは出たが、監獄の話は、どちらが、良く頑張ったか、のたわいない、自慢比べの程度で、殆どやりませんでした。いわんや、文学オヤ、です。
 要するに、僕と見沢は、義、政治に関することのみ論じ合ってきたわけです。
 文学については、僕は玄人とは言えませんが、素人とも言えず、それに、こっちも連合赤軍問題を抱えてえているし、監獄ともなれば、互いに、普通の懲役とは違う、かなり特別な経験も含んだ監獄体験があるのですから、噛み合わそうと思えば幾らでもかみ合わせたはずです。
 だが、文学も監獄も殆ど出なかったのです。不思議なことです。が、僕等はそれで、十分興奮し、満足していたのです。
 多分、政治的、思想的遍歴の歴史が、ある意味で、似通いすぎていた、ことが原因かもしれません。
 それ故に、僕をいつも注目しながら、彼流の見栄っ張りも手伝って、自己史に関する微妙な所は、触れ合わないようにし、政治第一の凌ぎあいの関係を維持しようと思っていたからかもしれません。
 何故なら、体験談やそれがベースとなった思想的遍歴やそれにまつわる文学の話は、彼の、左翼から右翼への転向、「粛清」事件、病気問題ら急所に踏み込むことになって行くからでないでしょうか。
 僕は、あくまで左翼民族派といえますが、彼は、同じ新左翼から出発しながら、一挙に一線を越え、転向し、右翼民族派に「成り切ろう」としたわけです。
 丁度、80年代の初めの頃、一水会が猛烈に突っ走っていた頃のことです。
 それで、若さ故でしょう、行動で、彼は、翔んでしまった、とも思えます。
 しかし、単なる右翼に成り切れるわけがありませんから、そこに精神の荒業を使いすぎ、無理をしていたが故に、自分の思想的立脚点をトータルなものにするため苦労していたとも考えられます。
 こう見てくれば、彼の思想分裂のもがき、孤独な魂の彷徨の跡をくっきりと僕は辿ることができます。
 『ライトイズライト』の主人公の若い男女は、表舞台では左と右に、別れていて、やりあっているのに、秘密の私生活関係では、恋人同士である、一見「奇妙」な光景も見受けられれば、『愛情省』では、「自分の"愛国"の対象は、国家ではなく、パトリである」と言い切り、一水会にすら部分的に残っている超国家主義を否定しています。
 この晩年の作品には、『天皇ごっこ』『調律の帝国』などとの暗さを超えて、明るさが差し込み始めています。僕の方に非常に接近してきています。
 僕など左翼と民族派右翼、一水会とは歴史認識などの「小異」は残しつつも、「反米・愛国」という大同で一致してますが、「民衆を中心とする考え方」と「国を愛すること」を統一することは、この国の「左=民衆中心、右=民族中心」という間違った図式による対立の歴史も手伝って、一般的には思想的・理論的に大変難しい課題です。
 晩年の彼には、河を飛び越えた後、今度は向こう岸から、必死で、此岸に橋を架け、バックしようとしたというか、「中庸」を捜そうとしたキライが見受けられます。
 「"スパイ"殺し事件」では、映像で再現したり、一方では親御さんに詫びに行ったり、他方では、俺は、絶対に、間違ってない、とか開き直ったりで、ちぐはぐしていますが、本当は、一番彼にとって触れられたくない、彼の魂を、一番深いところで規定する部分であったのでしょう。
 実は、僕等は電話でしたが、死ぬ一週間ほど前まで、上述した内容を、それも真夜中、一週間は明けず、時には三日間隔で、4月頃から、最低1時間位だったでしょうか、夢中で議論していたのです。
 彼の晩年をともにした人は、4〜5人程度と聞いておりますから、見沢にとって、僕等の関係は相当貴重であった、と思われます。
 見沢は、凝り性ですから、不在の時は留守録を入れて置いたり、で、ある時などは、深夜の議論で、家人に顰蹙され、外の畑に出てやったくらいです。
 又、ある時などは、僕も堪忍袋の緒が切れて、「もう、電話してくるな、切るぞ」とガチャンとやりました。
 その後、電話はなり続け、「12年間も付き合っていて、電話ガチャン、はないだろう」と怒鳴り込んで来、僕の方も「言いすぎた、やり過ぎた」で詫びる、一幕もありました。
 或いは、電話で話し合うだけでは、物質化しないから、レジュメ程度の文章を書いて来い、それで蓄積してゆこう、とも提案したのです。
 この辺を、もっと意識的にやっておれば、若しかしたら、見沢が言っていた、「新しい"マインカンプ"」を、共著で出せ、彼も延命していたかもしれません。
 僕と見沢の関係は、1993年ごろ出獄し、すぐ、彼が電話を掛けて来、高田の馬場で話し込んだのが始まりで、気の置けない弟分的政論相手だったという関係です。  
 彼は、朝鮮国にも、高沢や僕などの段取りで、木村三浩さんと二人で行き、田宮などにも会い、94年から、一年毎の9・2集会を六回も一緒にやりました。
 「訪朝記」については、『天皇ごっこ』に出ています。
 「9・2」とは、1945年、日本がミズーリー号上で降伏調印した日で、それ以来、日本は米国に占領、従属化される戦後史の起点である点で、この日が来るたび、毎年集会を、94年以来僕等は持ったのです。
 この前後、4年間ぐらい、彼は輝いていましたし、文学の上でも乗っていたと思われます。その後は、途切れ〜で会い、最後の何年間かは、正狩炎を介して動静を聞きあい、主として、電話でした。
 講演で喧嘩したり、間歇的に入院したり、指を詰めたり、ドタキャンを繰り返したりの動静でしたが、結構、電話を掛けて来ました。
 電話は、彼の躁、ハレの時ですから、声にも張りがあり、言う事も理路整然としていました。そして、今年に、入ってからの議論攻勢でした。
 しかし、これまで、話しましたように、僕等の間では、政治第一で、文学の分野は無意識なのでしょうが、全然話題にならなかったのです。
 彼が、その後、引き籠りがちなってからも、双方とも、自信屋ですからこの態度は崩しませんでした。
 政治議論は、それはそれでやりつつ、文学を媒介に、この思想遍歴や「スパイ事件」ら議論して行ったなら、相当の重なりが得られ、彼の癒しにも役立っていた、と思われますし、若しかしたら、僕と彼は、ピッタリ一致するところまで行ったかもしれません。
 なんの確たる理由もないのですが、正直、見沢の文学など読まないまま、僕は馬鹿にしていたキライがあったのです。
 本当に、愚かで、残念な限りです。

(三)
 彼の主だった作品を読んで見て、以下二つのことに気づきました。
 一つは、彼の作品が、どの程度の文学的価値を持っているかは、良く分かりませんが、彼が天性の表現者であったこと、文章表現をすることなしには生きられない人であったこと。書くこと、というよりは記すことは彼の生きる本能に近いものだった、と分かりました。
 彼は、懲役が一般にやるような、絵や歌や詩などの、余技、気慰みとは違って、書くこと、記すこと、創作に存在を賭けていた、といえます。
 その自己実現としての表現欲求、というより表現本能が、彼の監獄生活の良くも悪しく、おもを規定し、又、そのことに伴う傷痕、それが、出獄後の彼の人生を規定して行ったことが作品を見れば、たちどころに了解されます。
 二つは、彼は、一方で社会正義の大義に殉じることを疑わず、他方では、求道の人、そして知行合一の人ですから、その文学は、勢い、生き様晒しの文学となり、一頃の全共闘世代の自己否定に理念に近いものになります。
 否、彼こそ、それを純化して実行した人、と言ってよいように思えます。
 生き様晒しは、僕の監獄獄友の、永山則夫が提唱していました。
 その意味では、身を削りながら、文学的営為を行っていたと、と思えます。
 福田和也が、ある追悼会の席で、日本の近代文学の歴史を作り上げた、漱石に始まり、透谷、芥川、有島、太宰、三島と言った作家たちには、自分を自ら進んで窮地の状態に追い込んでゆくような性癖があり、その極限としての狂気を孕んだような自殺を宿命付けられている、見沢もその流れの中にあった人ではないか、と挨拶していました。
 これは、褒めすぎのきらい無きにしも非ず、ですが、十分頷けることで、僕には、その中でも、日本無頼派、分けても太宰に重なる印象を受けました。
 太宰、その人もまた、道化師といわれながら、偽善を憎み、徹頭徹尾自らの内心の声に忠実に、文学表現に徹し、目茶目茶に、無軌道、無政府、不道徳に生きた人です。
 監獄では、懲役は日記を付けることすら許されません。オスカー・ワイルドが「獄中記」の下書きを記したようには行かないのです。
 当局は、あらゆる手段を使って、監獄情報を監獄内に凍結しようと全力を上げます。
 行刑密航主義という、インチキ原則をひねり出し、監獄の陋劣さ、非人間性、官僚専制性を娑婆の人々に、絶対的に知らさせないようにするためです。
 このような監獄法は、1907年監獄法が定められて以来、戦後の改革の波からも外れ、精神病院の管理運営規則と並んで、本質的改革を基本的なところで受けていません。このような、環境の下で、見沢は、憲法を逆手にとって、常に、監獄法の暴虐に抗議しながら、日々の監獄体験を克明に、母堂にせっせと書き連ねていっています。
 12年の監獄生活を送り、裁判闘争がどうだったか、わかりませんが、早めに、それを終了し、LA級の高級(12年以上の長期)刑務所である千葉刑で大半を過ごしています。
 『囚人狂時代』に拠れば、最初の3年間は、それでも控えめで、雑居房で、普通の囚人らしく振舞おうとしていますが、以降は、正面から書く権利、表現の権利をおおぴらに主張しています。そのため、「厳正独居」という、厳正の隔離房に入れられ、更に苛酷な八王子の医療刑務所に回され、精神障害者処遇のB棟に2ヶ月ぐらいですが、放り込まれています。
 殆ど、僥倖に近い、としか考えられませんが、好機を得て、彼は、何とか、千葉刑に舞い戻っています。
 「八王子に行けば、棺桶に入ってしか出られない」というのが懲役たちの常識で、僕には不思議に思えます。
 懲役刑を受けつつ、監獄の実態を書いてゆくことは、大変な闘いです。
 大げさに言えば、体を張り、命を賭けてしか、こんな闘いは出来ません。
 それ自体は、合法的でありながら、監獄法では非合法で、それを無理やり押し通そうとすれば、必ず、厳正独居房処遇にされ、集中的な、抑圧攻撃を受けます。
 左翼、全共闘の革命家たちが、獄からいろいろ書いてますが、それは、刑務所内のことではなく、入所以前のことであり、僅かに永田洋子さんの病気療養の姿や監獄のジャンヌ・ダルク、荒井まり子さんによって若干記されているに過ぎず、それ以外は、全て、民事訴訟を構えて、外の救援体制を敷きつつ、訴訟用として書いているわけです。
 僕も、こうやって、厳正独居処遇を打破したのです。この時は、既に、どん底の「厳正独居」に、釘付けにされ、活路は、這い上がるために闘う以外に無く、僕は、訴訟資料として、監獄内のことをおおぴらに書いたのでした。
 又、出獄しておおぴらに書くか、といえばそうもいかないのです。
 普通は、思い出話程度なら別ですが、出獄しても、いろんな事情も重なり、なかなか、正面からは書けないものです。
 書いても、なかなか、刑務所の非人間性を真正面から告発するようにはならないものです。監獄モノの本や漫画は、世間のはみ出しモノと、身を減り下だし、面白おかしく書くものと相場が決まっています。
 僕なども、書こう、書こう、という想いは萎えることは無かったのですが、諸事情、諸要因が重なり、結局12年経って、やっと「監獄記」を書き上げました。
 ドストエフスキーもモスクアに帰還して、暫くして「死の家の記録」を書いています。もっとも、ドストエフスキーの諸作品は、殆ど、監獄体験が、土台になっているといって過言ではないのですが。
 ところが、彼は、監獄に居た時から、書き、出獄してすぐに書きまくっているのです。
 これには、僕も脱帽せざるを得ません。
 見沢のように、単独で、真正面からの表現闘争を、それも小説スタイルをとって、やることは、超弩級に破天荒で、全く無鉄砲な限りなのです。
 空いた口が、塞がらないほど、極左ブランキーな「革命的」行動を、見沢が取ってきたことは、しっかりとこの際、確認されるべきです。
 刑務所はこういった行動に、当然、決定的脅威を感じ、何が何でも潰そうとしてきます。その結果、普通の懲役なら、防御力、反撃体制が全くないわけですから、当局の思い通りされ、火達磨にされます。
 見沢は、正に、そうされ、あまつさえ、精神障害者扱いにされ、O医師等によって、薬物実験の対象とされ、多様な薬を多量に服用させられています。ロボトミー手術こそされていませんが、電気療法も受けさせられています。
 基本的には、廃人化攻撃です。
 見沢は、薬物実験や八王子医療刑務所行きも、小説の材料に役立てられる、くらいに軽く考えて、自分から応じているフシがあります。
 まことに、アホなことです。
 何故、教養も賢明さもある見沢が、このような馬鹿げた行動に出たのでしょうか?
 刑務所の非人間性への怒りといった要因もありますが、それこそ、彼が天来とも言える表現者で、書き、表現することで、それを生の証しとするような人であったからに他なりません。
 彼は、書くことによって、生の充実、人生の幸福を得ていたのです。
 彼は、あの小さい、ぐにゃグニャの読みにくい限りの文字の中に、自分の人生、生きる価値を塗る理込めて行った、と思えます。
 このことは次の文章を引くだけで、全く明白です。
 「ところが、何か小説を構想して書き始めると、その創作に限っては、"聖なる病"という症状で、秩序を保ち、整った文章が書けた。死の淵を錯乱する死刑囚や、精神病に罹患した音楽家、画家と等類で、苦痛が極まって暴風が渦を巻くSの心裏にも、本当に、創作だけが精神の破綻を救い昇華するという作用が、切実なものとしてありえた。ひとたび、筆を離すと、たちどころに心の地滑りがSを襲った(調律の帝国)」
 この心象は、僕には手に取るように分かります。
 何故なら、僕もまた、あの苛酷な「厳正独居」の生活の中で、精神を際立たせてゆくために、「創作」とは違え、「政治論文」を書くことに集中したものでした。これをやり遂げると、気力も充実し、頭もすっきりし、寒さなど物の数ではないと思うようになったものでした。
 正狩炎が作った彼の伝記のDVDを見ると、彼の小学校時代の作文が載せられていますが、小学生とは思えない、センスある美しい文章でした。
 いろんな、習作も書き、一水界時代の政治文章も、内容はともあれ、歯切れ良い、秀麗な文章で、多くのファンを作り出しています。
 書かずしては生きられない人、これが見沢像の背骨をなしていると言ってよい、と思います。
 そして、志の人、知行合一の人であれば、どんな環境であれ、怯む所無く、自分の信ずるところを書いていったのです。
 しかし、われわれが、留意すべき最重要なことは、実は、このことだけでなく、次のことでもあったと思います。
 見沢は、書く条件を手に入れるために、結果から見れば、厳正独居処遇や薬物実験になることを引き換えにした、ということです。
 この、犠牲、訓練があったからこそ、懲役の身で、「新日本文学界」の賞を手に入れ、出獄してから、すぐの3〜4年の快進撃があった、という普通では考えられない、動き方も説明できます。
 他面では、この見返りとして、刑務所で植えつけられた薬物依存や精神障害の症状の潜伏、発病、ないしは継続が、出獄後、彼を悩まさせ、最後には、彼をボロボロにし、死命を制してゆく原因ともなった、ということです。

(四)
 見沢の死因については、僕等の周りには議論があります。
 薬物依存の果て、だとか、夕焼けが余りにも綺麗で、それに魅せられてしまったからだ、とか、それまでの歴史を超消しに出来るような作家としての地歩を固めようと考えて、満を持して、書いた「調律の帝国」が三島賞を逸したからだ、とか、時代閉塞の情況での、政治的憤死だ、とか侃侃諤々です。
 どれも、一理ある見解と思っていますが、僕は、最後の説を採ってきましたが、イマイチすっきりしないところが残っていました。
 正狩炎が主張するように、薬物依存で、体がボロボロになっていた、それで苦しくて〜堪らなかった、というのは動かせぬところだと思います。
 だが、これだけで事足れりとすれば、余りに芸無く、零れ落ちるものがあり過ぎます。
 僕はこれまでの自説を補強するものとして、思想家、表現者としての、生き方の苦しさの要因を挙げざるを得ません。
 言い換えれば、今、現代世界が、安定か、激動か、決定的岐路に立っていることは確かですが、「安定」にしても、余りに複雑な要素が拮抗する「安定」、激動する要素の内包、「激動」、しかし、これまでに類を見ないような「激動」、いずれにしても、一寸油断すれば、はたき落され、野良犬の如く這いずり回るか、野垂れ死にする不安の内包、こういった今の世界の捉えどころのなさ、この現代を、思想家、表現者として、世界を対象にして徒手空拳で、表現してゆかなければならぬ苦しさの問題です。
 見沢には、何かの、拠るべき公式や教義があるわけでもないし、判断を一時韜晦に伏すにたる社会的地位も財力もあったわけではありません。
 もっとも、世界は、この種の人々にとっては、いつの世、如何なる時代であろうと、そうあるといっても良いのですが。
 このことについて考えているうちに、太宰治のことを考えるようになり、彼の作品をかなりきちんと読み返す、こととなりました。
 太宰が情死行の常習犯で、いつも死ぬ、死ぬ、を連発し、結局、好きでもない女と、泥酔状況で、言ったとおりに死んでしまったことは、周知のことです。
 太宰も見沢も本質的には、理知的、繊細でナイーブな人だと思います。
 二人とも、ラジカルである面で、間違うことなく"革命的"でありましたが、不器用で、決して政治家ではありませんでした。
 そうであるが故に、二人とも始めは、マルクス主義に取り込まれています。そして、離れていっています。しかし、二人とも、若き日に自分をマルクス主義に突き動かした、自分の生きる縁(よすが)とするものを、ずっと引き摺り、それを大切なものとして、どんな条件でも非妥協的に譲らない頑固さがあったことも明らかです。
 太宰には、何処の出典だか忘れましたが、故郷の青森を想定した、「共産主義社会」を、自己流に、老荘的な「桃源郷」として想像する印象深い言葉があります。青い森、岩木山、雪、りんご、ぶな林、故郷の自然とそこで生きる人々の関係のファンタジー……、これが太宰の未来のユートピアであったのでしょう。
 二人とも、偽善を嫌い、権力や権威を嫌い、常識など、歯牙にもかけず、自分の感性に徹底的に忠実で、思い込み激しく、やりたい放題をやった人でもありました。
 全体的に見れば、無頼の徒輩と言えます
 二人とも、若い時、決定的なトラウマともなる心中未遂や「スパイ殺人事件」など起こし、死ぬことなど、なんとも思ってなく、その一線をぱっと飛び越えてしまうような無茶苦茶さを持っています。
 そして、そこから来る、ハチャメチャ、ズッコケで、存在そのものが笑いを誘うような人でした。
 太宰の方が、年齢的には約10歳若くして亡くなっていますが、そして作家的には、遥かに先輩で、業績も残していますが、時代と社会状況の違いを考えれば、意外に同年齢的とも言えなくもありません。
 女性に無類に持てた、のも共通していますが、太宰のように、見沢は、作品の主人公を女性に設定するほど、女性に通暁してはいませんし、それは彼の基本テーマになっていません。
 しかし、見沢には、太宰に失われかけていた、混乱に満ち満ちていましたが、民族自主革命家として、世界を対象とし、それを我が物とせんとする大義志向、そこから政治と文学を統一してゆこうとする、オーソドックスな志向があります。
 それが彼の生きる力ともなれば、そこでの洞察の不透明、混乱、不徹底、自己の不実現が彼を苦しめ続けた、と思います。
 彼の、民族(自主)革命家としての自己認識が、本当は決定的に問題なのです。
 彼には、言葉だけなのかわかりませんが、全くどうしょうもない、自己をカミ、超人視するようなニーチェ的な誇大妄想癖もあれば、神秘主義もあります。或いは、ヒットラー張りのエスノセントリズム(選良民族主義)、人種主義も無批判なまま許容されています。
 だから、これらと反対の民衆を第一とする、民衆中心主義の志向は希薄です。人間観における、命とその自主性を最大尊貴し、自主と協同、愛や信頼、徳、幸せを志向する思想的営為の原理も持っていません。資本主義批判もしっかりしていず、感性的です。
 個人主義の実存主義者であった、と言ってよいと思います。
 「マルクス主義」の限界を、真にマルクス主義を摂取した上で、その限界を超克する、粘り強い営為の努力をしてきたか、については不十分を指摘せざるを得ません。
 "民族"を決定的なキーワード、より所としての、右翼への非合理な乗り移りが、彼の思考構造を、常に不安定にし、混乱させ、始終分裂させ、「狂気」の状態を呈させ、時には、信じられないような疾走、跳躍に駆り立て、他方では、無茶苦茶な投げやりな生き方をさせたともいえます。
 思考の土台は、如何に華麗な知的装飾物と軽やかな文体で粉飾されていても、ぐらぐらで、不安定極まりなく、それ故、思考は極めて振幅の大きいものだったといえます。
 この、振幅は、右翼を本来の出自とする人々とは、比べ物にならなかったでしょう。
 超国家主義は出獄後の3〜4年をして、崩れて言っているように思えます。
 いうならば、民衆的で、人間的な民族の在り様としての「民族」への思索が生まれ始めています。本来の意味での良質な日本志向やアジア志向です。
 彼は、この思想的重圧に耐え切れなくなっていた、と思います。
 間違っていたことが自覚されても、もう生きなおし不可能で、現実に膠着され、滅び、に甘んずる生き様もあります。
 誰も、完全には生きられず、いろんな過去を引き摺り、自己を限界ある存在として固定して、生きざるを得ません。
 そして、そのような生き様として、目茶苦茶に生き、それはそれで、その存在意義を歴史に記すことがあります。
 太宰の死をめぐっての文学関係の評価について、読みました。そこで、僕は無頼派の雄、坂口安吾の言を発見しました。
 「常時に戦争である芸道の人々が、一般世間の人々の規矩と自ら別の世界にあることは、理解していただかなければならぬ。いわば常時において、特攻隊のごとく、生きつつあるものである。常時において、仕事には、魂とイノチが賭けられている。しかし、好き好んで、の芸道であるから、指名された特攻隊の如く悲壮な面相ではなく、我々は、平チャラに、事もない顔をしているだけである」
 「芸道は、常に戦争であるから、平チャラな顔をしていても、へその奥では、常にキャーと悲鳴をあげ、穴ポコに逃げこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、生き方、死に方に体を無さなくなる」
 「太宰は小説が書けなくなった、と遺書を残しているが、小説が書けない、なんて一時的なもので、絶対的なものでない。こういったメランコリックを絶対的なメランコリックに置き換えてはいけない。それぐらいのことを知らない、太宰ではないから、一時的メランコリックで、ふと死んだに過ぎなかろう。」
 見沢は、頻々たる入退院の繰り返し、その度ごとに増量してゆく薬物に拮抗する如く、獄でやったように本能的に書こうと努力したのであろう。
 この、繰り返しの極限で、自ら志願した特攻隊員として、ふと面倒くさくなって死のうと思ったのでしょう。
 見沢は現代の特攻隊であった。
 僕は、この締めで納得したのでした。(塩見孝也)


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