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【異色作家 故・見沢知廉との事ども】連載(5)最終回・・・・・・(思川清風)

※メールマガジン「殺気ある文学」に掲載した文章です※

昭和58年、野村秋介氏は戦線復帰後、全国各地の集会で講演し、著書を出版。又テレビなどのマスコミにも顔を出すなど、精力的な活動をこなしていった。横浜での復帰第一弾の講演の際「これからの10年で俺の死に様を見せてやる・・・」と言い放ったが、それを気留めている者は居なかった。

清水浩二=高橋哲央=見沢知廉が獄中に下ってからの統一戦線義勇軍は、特に画期的な活動として、神奈川県逗子市の米軍池子住宅建設反対などの闘いを実践した。火炎瓶処罰法で逮捕される者や、現・議長の針谷大輔氏は、拳銃を隠し持っていた事を通報され、銃砲刀剣類不法所持で逮捕されるなど過激派ぶりが受け継がれている 

昭和61年(1986年) 千葉刑務所の高橋哲央=見沢知廉は27歳になっていた。少年の頃から獄中生活に免疫の無い彼は、若さゆえもあって、自由の効かない刑務所のもどかしさや、全てが規則でがんじがらめにされ、行動規範のひとつひとつが看守の命令によらねば進まないロボットのような生活。囚人とはいえ、人を人とも思わないような所業の看守らの多くの言動に我慢の限界を覚えていた。彼の苦悩は大きかった。何よりも、獄中において、彼と心を通わせて話の出来る相手は皆無だった。時々冷やかし半分に話しかけて来る同じ工場の囚人はいたが無視する事にしていた。

彼は刑務所での反抗を開始する。そして、この後、出所まで看守の目をかいくぐり執筆活動を続けた。その文章は手紙に巧妙にしたため母に送った。それを母親が清書し文学賞に応募した。                                             

ことごとく看守に反抗するうち、これまでの、夜間独居、工場出役(朝から各種工場での作業。夜、政治犯など一部の処遇者は、三畳ほどの一人部屋=独居房で生活する)という快適?な筈の生活から、一転、昼夜独居専門舎の「11舎」へ強制的に移された。この昼夜間独居は、夜間独居と同じ三畳ほどの空間ではあったが、一日中座ったまま袋張りなどの軽作業をしなければならない。担当看守や掃夫(そうふ)と呼ばれる、食事の配給や、洗濯物の出し入れなど身の回りの世話をする一部の囚人としか接する機会が無い。話などは出来ない。刑務作業中は、歩いて二〜三歩の距離にあるトイレ(用便)に立つのも許可が必要で、作業を終了しても、横になったり、立ったり、壁に寄りかかったり、足を投げ出したり、声を出したり、歌を唄ったりすれば、全てが規則違反である。当然、足腰が弱くなり、ほとんど人と話さないため拘禁病にかかる。早い者で、三日から一週間ほどで、奇声を発したり、泣き出したり、気が狂う者さえ出る。壁に頭をぶつけて、保護房へ行く者も居る。勿論、冷暖房などは無いから夏は暑く、冬は極端に寒い。刑務所の中でもこの昼夜間独居は特別劣悪な環境で、まさに「煉獄の苦しみ」ともいうべき場所なのである。この頃高橋哲央=見沢知廉の手になる 『民族派暴力革命論』が小部数刊行された。   

私は、昭和61年にこの刊行されたばかりの『民族派暴力革命論』を、東京拘置所の独房で読んだ。鈴木邦男氏からの差し入れだった。去る4月29日の午前一時前、東京赤坂の檜町公園で爆発事件があり、一人の若者が両眼喪失両手指数本切断という大怪我を負った。翌日「内外タイムス」紙に、「昭和勤皇党」名による犯行声明が出された。

この年は、昭和天皇の「ご在位60年奉祝」行事と、先進国首脳会議「東京サミット」が予定されていた。昨年から、新左翼過激各派は、「東京サミット爆砕」を叫んでしのぎを削っていた。暮れには、革共同・中核派が開発したロケット砲により、アメリカ大使館に向けて火炎弾が発射される事件が起きていた。中曽根総理はおろかにも、本来、11月10日に行うべき奉祝行事と東京サミットを、警備上の理由で短期間に終わらせる計画を立てた。前者を天皇誕生日の4月29日に、サミットを、都内が静かになるゴールデンウイーク中にすることが決まって、新左翼過激各派、特に、中核派、戦旗派、社青同開放派の三派は、互いにゲリラ行動で、この二つの行事をつぶすと機関紙などで豪語していた。

昭和60年暮れ、国内は丁度クリスマス騒ぎで浮かれていた頃、私はサイパン島に出かけた。到着するなりゴルフに出かける者たちを尻目に、友人と二人、貸し切りのタクシーで、大東亜戦争戦没者の慰霊に回った。日本語の流暢な現地人運転手が懇切丁寧に案内し説明してくた。中でも、バンザイクリフといわれる絶壁の断崖に立った時には、とめどなく涙が溢れて来て運転手を驚かせた。戦況が悪化し、すでに玉砕の状況にあった当時、島に残っていた大半の日本人が、祖国を向いて「ばんざい」を叫び、つぎつぎに飛び込んで行ったという悲しい現実を知らされて込み上げて来た嗚咽を止める事が出来なかったのである。

新しい年になって何故か心が落ち着かなかった。三月半ば、「神宮参拝禊会」の誘いを受けた。前日、故・阿部勉、故・松本効三両氏と岐阜の大夢館へ行き、すでに来ていた同志たちと合流し気炎を上げ酒盃を酌み交わした。その夜は、護国神社の会館に宿泊。翌日、外宮へ参拝し神宮会館へ。夜、禊作法の講習が行われた。翌早朝五時、五十鈴川で禊を行った。三月半ばとはいえ気温は低く水も冷たい。当時、すでに70歳を過ぎておられた故・中村武彦先生が「大祓詞」を奏上されていたのを思い出す。朝食後、神宮(内宮)へ正式参拝した。何故か心身ともにすっきりして、心のもやもやもいつの間にか消え去っていた。

禊から帰って間もない、3月25日(だった?と思う)皇居に火炎弾が打ち込まれたというニュースを、機関紙の校正作業をしていた六本木の軽食喫茶のテレビで見た。次いで、3月30日には、迎賓館(だった?かな)に火炎弾が打ち込まれた。共産同・戦旗派と社青同開放派(だった?と思う)の仕業である。

25日の時点ですでに心は決まっていた。私は、常々左翼(反日主義者)の目的には賛同できないが、時々の政策や、戦術には幾分同調できる部分もあるし、ある意味反面教師的に勉強にはなる・・・と感じていた。天皇にとって日本国民はすべて赤子(せきし)である。我々は兄弟姉妹なのである・・・が、ただ彼らは、今、考えが狂っているか、反抗期なんだ・・・そんな気持ちもあった。しかし、親に金属バットを振りかざすような兄弟姉妹は、許せない・・・。そして、作戦が始まった。三月末には、埼玉県蕨市内の共産同・戦旗荒派の本部へ、関東周辺の右翼団体が押しかけた。私も行ったが、公園での集会も、本部前での抗議も空しく感じていた。

苦悩があった。いろいろ調べた結果、新左翼過激三派は、「天皇ご在位60年」奉祝日の4月29日、今上(きんじょう)天皇誕生日当日に集会を予定している。ここが一番狙いやすい。しかし、昔から「天皇誕生日には、血を流すような忌まわしい事をするな」という不文律がある・・・と聞いた事があったのだ。それを破って、たまたま一番警備の手薄だった、社青同開放派(狭間派)の集会場所である、赤坂の檜町公園に、手製の時限爆弾を仕掛けに行かせたのが失敗だった。大事な門下生を身体障害者にしてしまった。彼は、その上実刑三年である。

私も爆発物取締り罰則違反で懲役6年の刑で獄中に下った。この年は、この事件の他にも、右翼と左翼の衝突が是までになく発生した。61年暮れ、横浜刑務所へ移管され、夜間独居に落ち着いた。平成4年8月に出所するまで、一水会の機関紙「レコンキスタ」が、千葉刑にいる高橋哲央=見沢知廉の事を教えてくれた。彼もまた、私の事件と、その後時々掲載される横浜刑の私の記事を読んでいた。共通の情報源だったのだ。  

高橋哲央=見沢知廉の苦悩は益々続いていた。昭和62年秋、昭和天皇が下血され入院。全国の刑務所に恩赦騒ぎが起こった。私は、毎朝の味噌汁を三ヶ月間絶って「ご平癒」祈願を込める行を行った。昭和63年(1988年)天皇陛下は一旦は回復され退院された。8月15日「全国戦没者追悼式」にご出席された天皇陛下は、秋になり再び入院された。再び、恩赦騒ぎが起きる。横浜刑務所でも、昨年同様、私のところへ恩赦が出そうか聞きに来るものが後を絶たず、あまりに煩くて、静かに「ご平癒」を祈る事もできないため、昼夜間独居へ入る。昭和64年(1988年)1月7日、昭和天皇崩御。が、やはり私の言うようにほんの一部の者以外恩赦は出なかった。私は、工場へ戻れという刑務所側へ、神道式で50日祭まで喪に服す事を認めさせた。

一方、高橋哲央=見沢知廉は、情報も少ないため恩赦を当てにしていた。当てが外れた分余計に苦悶が大きかった。元号は「平成」となった。7月頃反抗のため、八王子医療刑務所へ。あまりにもジタバタじていた彼を心配し、お母さんが野村秋介先生に相談。しかし、親族ではないため手紙などは出せない。「レコンキスタ」に彼に当てたメッセージが載った。「熱い風呂に入ってる時はじっとしていろ。ジタバタすると余計に熱く感じる・・・」私には、よく理解できたが、はたして彼には届いたか判らない。

平成2年(1990年)高橋哲央=見沢知廉は、31歳。千葉刑務所の11舎へ戻る。この年、コスモス文学賞を受賞。私は、40歳。考えがあって、出所までの二年間昼夜間独居へ入る。平成3年 (1991年)高橋哲央=見沢知廉は、32歳。獄中決起未遂。執筆禁止などを巡りハンスト(絶食)。39キロまで痩せる。

平成4年8月5日朝、私は、横浜刑務所を満期で出所した。42歳になっていた。最後の二年間昼夜間独居暮らしで、拘禁病が進み、アルツハイマーと変わらない症状があった。おまけに目は老眼。頭髪も薄くなり足腰は力なくガタガタだった。足腰も頭も一応まともになるまでに一年間を費やした。 

平成5年 (1993年)10月20日晴天の霹靂ともいうべき事件が起きた。朝日新聞東京本社役員応接室で、野村秋介氏が拳銃自決したのである。獄中の高橋哲央=見沢知廉にも、出所後のリハビリ中であった私にもショックであった。昨年出所した私は、翌日赤坂の野村事務所を訪れ留守中家族と弟子がお世話になった御礼を述べたのであった。又、野村事務所の忘年会が蒲田の「ブルー愛」で催され、それに参加して「少しは、娑婆に慣れたか」と言われた言葉が最後になってしまった。  

平成6年 (1994年)4月1日、朝日新聞東京本社籠城占拠事件が起きる。高橋哲央=見沢知廉は、35歳。春より、本省派遣の幹部、看守などに拷問の限りをつくされる。小説執筆もまた、禁止となる。10月、新日本文学賞受賞。12月8日満期出所。出迎えた私と彼は初対面(たぶん)であった。「ゆっくりリハビリしろよ」という私に、彼は深く頷いた。二人にしかわからない見つめあいには誰も気づく者は居なかった。

平成7年 (1995年)高橋哲央36歳。出所後彼は、メディアに登場。見沢知廉と名乗る。この年の暮れ、彼から『天皇ごっこ』が贈られて来た。見沢知廉の真価はこれから表れる。合掌。    

※訂正・・・連載(その1)で、国内政治は・・・云々のくだりで、「・・・日本赤軍の台頭」と記載したが、京浜安保共闘のメンバーなどが連合赤軍を結成し、革命資金調達のためのM作戦などを敢行する過程で逮捕者が相次ぎ、徐々に、警察に追い詰められて、山岳アジトへと後退を余儀なくされた。その後、同志間のリンチ殺人事件などを起こし、あさま山荘事件へと破滅の道を辿るのに比較して、日本赤軍は、活動の拠点を海外(特にパレスチナ解放闘争)へ移したのであり、正確には「国外での台頭」である。しかし、彼らは、後には、日本国内の獄中にいる同志を、航空機のハイジャックによって救出、糾合するという快挙?的行動を展開して日本国民ばかりか世界中を震撼させた。 
※義勇軍時代の見沢知廉(清水浩二=高橋哲央)氏についての詳細は、一水会 機関紙 「レコンキスタ」又は、義勇軍機関紙 「義勇軍報」のバックナンバーを参照されれば、不足の分は、かなり補うことができます。 でも「義勇軍報」はあるかどうか自信はありません。  
※この連載記事中、不明確な箇所が多く見受けられると思うが、ご勘弁願いたい。小生は現在、病気療養中であり、手元に資料が全く無い。そのため、多少後遺症の残った頭をフル稼働?させて、記憶を呼び起こし、可能な限り真実に近いものを書いたと思っている。疑念があれば、読者諸賢が調査して頂き、編集部を通じて間違いを訂正してくれたら幸いである。 
(思川清風)

おもいかわ・せいふう


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