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【異色作家 故・見沢知廉との事ども】連載(3)・・・・・・(思川清風)

※メールマガジン「殺気ある文学」に掲載した文章です※

 昭和52年(1977年)3月3日、「経団連事件」が発生した。元・楯乃 會の伊藤好雄を隊長に、野村秋介、西〇〇〇〇、森田忠明氏の4名が、日本経 済団体連合会=経団連(土光敏夫会長)の推し進める「経済至上主義」に警鐘 を鳴らすため、散弾銃、日本刀などで武装し、経団連会館を襲撃占拠したので ある。世間一般の国民や、右翼民族派のほとんどの者たちも、この突然の事件 を余り理解出来なかった。しかし、純正右翼とよばれる大東塾の影山正治塾長 や、新右翼・一水会と、その周辺にいる者には、彼らの訴えようとしている事 が、如何にわが国にとって大事な指摘であるのかよく理解出来た。

 昭和53年(1978年)19歳からの高橋哲央=見沢知廉は、新左翼セク トの活動を継続しつつ高校を卒業。中央大学法学部に入学した。そして、開港 を目前に控えた成田空港の「開港絶対阻止」を叫ぶ新左翼各派の合同ゲリラに よる「3・26管制塔占拠闘争」に一兵士として参加。本人はこの作戦に参加 する限り生きて帰れないと考え、処女小説『回転』を執筆。新人賞へ投稿した。 管制塔占拠作戦は、激しいゲリラ戦の末思いがけなくも勝利し、警備の不意を 突かれた機動隊や警察官僚達は唖然とした。また、これまで、「成田空港問題」 にはあまり関心を示さなかった一般国民も、テレビ画面にアップで映し出され たヘルメットにタオルで覆面をしたゲリラ兵士の誇らしげな姿に驚愕した。し かし、多少の波乱含みで開港日程に遅れはあったものの成田空港は無事開港し た。

 彼は、この作戦の成功によって、見えるものも見えなくなっていた。武装闘 争で社会が変わるという「革命の幻想」にとりつかれ新左翼セクトのアジト専 従になった。

 昭和53年は、私にとっても人生に何度かある転換期の一つであった。民族 運動を始めて、この三年来の課題であった、カタギ(俗にヤクザの足を洗う) になり活動に専従するための苦難であった。「任侠道」と奇麗事を言ってはい ても、ヤクザは所詮法律を無視して生きる暴力団であり、右翼・民族派は、国 のため国民のために政治家のできない部分で政治を糾す。この相矛盾する生き 方を両立しながらやれば、それは、嘘をつくことになる・・・。正月が明けて 間もなく、何度かの折衝の末、親分の了解を取り付けた。しかし、愛着があり、 兄弟や、知人・友人・同志たち、愚連隊の頃からの仲間など、あまりにしがら みの多い横浜は、かえって今後の障碍になることを慮って、右翼活動のあまり 盛んではない北関東の保守?王国と云われる某県へ転居した。5月のことであ る。7月には、体重が少なく未熟児ではあったが、長女が生まれた。8月には、 運動の拠点になる事務所を開設し、横浜からたった一人伴って来た若者を住ま わせた。10月には、全く知らない県内各地を4日間かけて啓蒙街宣して回っ た。左右の活動が活発な神奈川県とは違い、寒々とした空気を感じた。  

 一方、新左翼セクトのアジト専従になった高橋哲央=見沢知廉は、未だに 「日本の革命」を夢に見ていた。しかし、現実の日本国内は、「オイルショッ ク」の影響で、ちり紙やテイシュッペーパー、石油製品などの品不足で大騒ぎ するなど多少の不便さはあったものの、誰が名づけたのか経済は「神武景気」 といわれ益々上昇。「三種の神器」と呼ばれる家電製品を持つのが当たり前、 自家用車も一家に一台などと、国民は浮かれに浮かれていた。そして、戦後の 景気上昇と比例しながら膨張してきた社会党員、共産党員、労働組合の組合員 や新左翼の活動家のなど、所謂左翼勢力は年々減少の一途をたどり、その存在 自体に翳りが見え始めていた。成田空港問題も開港に伴って、非現実的な闘争 となってしまった感は否めなかった。新左翼セクト各派は、この辺で心機一転 なんとか巻き返しを図りたかった。

 高橋哲央=見沢知廉も、さすがにこの状況には憂いを抱き、新左翼各派の合 同により予定されていた「反東京サミット決起集会」が起死回生のための必須 の作戦と思っていた。しかし、各派の亀裂が大きく集会は中止になってしまっ た。彼は、あまりにもセクト同士のエゴが大きいことから日本革命の非現実性 を目の当たりにして、新左翼に失望しセクトを止めた。空想の共産革命にも見 切りをつけた。そして、その鬱憤を晴らすかのように、その後一年間部屋へ閉 じこもって、ひたすら小説を書きまくり、また、活動に明け暮れ疎かにしてい た勉強にも熱中した。 

 ヤクザを止め横浜から某県へ転居し心機一転。念願の右翼民族派専従活動家 になった私は、活動資金を稼ぐ為もあり軽トラを購入しチリ紙交換を始めた。 そのおかげでこれまでまるで知らなかったこの地方の町々の地理を覚えた。ま た、各家庭から出る新聞や雑誌・書籍の類によって、住んでいる人々のおおよ その職業や思想、信仰、家族関係、人間性を分析した。長い間裏社会で生きた 経験はこういう時とても役に立った。  

 活動の面でもこれまでと違い、県内では単独で動くしかないので、県本部を 立ち上げた。県内12の市を3ブロックに分けて、街宣車による啓蒙宣伝を地 道に行った。いろいろな運動で上京する事も多かったが、後を託した神奈川県 本部の様子を見るため時々は横浜へも出かけた。この新天地には全く知人や同 志が居なかった自分たちであったが、その年の暮れに突然二人の男性が事務所 に訪ねて来た。一人は、大東塾関係者、もう一人は防共挺身隊の関係者である と名乗った。私と同年代の二人は、交互に、「最近頻繁に宣伝車で啓蒙活動を しているようだが、どのような目的であるのか・・・」おおよそこんな質問を 投げかけてきた。

 高橋哲央=見沢知廉は、新左翼セクトを止め、共産革命の幻想にみきりをつ けたつもりであっが、何故か心の中に渦巻く空虚な思いは消えなかった。そん な時、昭和45年11月25日、東京市ヶ谷で壮絶な自決を遂げた有名作家で、 楯乃會創設者、三島由紀夫を追悼する「第10回 憂国忌」が、靖国神社に近 い東京都千代田区の九段会館で開催されることを知った。彼は、もともと、作 家として、その死に様も特異な三島由紀夫に何故かわからないが無性に引かれ るものがあったので参加してみる事にした。憂国忌関係者にすれば毎年続けて きた一つのセレモニーに過ぎない行事が進むにつれ、高橋哲央=見沢知廉の脳 裏には、管制塔占拠前後の事が甦ってきた。一日以上も暗い地下道に潜み、一 気に駆け上がった、あの、開港間近かの成田空港管制塔占拠の旋律にも似た衝 撃が体中を駆け巡った。全身に鳥肌が立ち快感に変わった。三島由紀夫の魂が 自分の体に一瞬時に入り込んだような錯覚に陥った。彼は、この事をきっかけ に新右翼の団体に入った。
(思川清風)

おもいかわ・せいふう


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