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【異色作家 故・見沢知廉との事ども】連載(1)・・・・・・(思川清風)

※メールマガジン「殺気ある文学」に掲載した文章です※

 私が、生前、見沢と会ったのはたった一度きりである。…と思って いる。もしかすると、高田馬場で毎月定期的に開催されていた一水会 の勉強会かどこかで会ったことがあるのかもわからないが、自分の記 憶に残っているかぎり、彼が、12年の獄中生活を終え、千葉刑務所 から生還した、平成6年(1994年)12月8日の朝である。

 出迎えに駆けつけた同志が誰だったかも、はっきりしない。30人 か50人居たのかさえも、覚えていないし、誰に誘われて出迎えに行 ったのかさえ定かでない。当時一水会代表の鈴木邦男氏や、書記長で 現代表の木村三浩氏、統一戦線義勇軍議長の針谷大輔氏などが居たは ずなのに、それさえも覚えていない。ただ、記憶に鮮明なのは、長い 間彼の帰りを待ち続けたお母さんと、痩せて青白い何処か病気がちに 見えるが、眼光だけが鷹のようにするどい彼の姿である。 

 異色作家、見沢知廉(活動家名・清水浩司、本名・高橋哲央)。彼 が世間で、新右翼団体といわれている一水会の別働軍事組織と目され る、統一戦線義勇軍に関わったのは、略歴を見ると、昭和57年(1 982年)23歳とある。

 読者諸賢には、あまり興味が無いと思うが、最近めっきり物忘れが 多くなった私の記憶を容易に戻すために、自分の辿った道を振り返り ながら、彼の政治活動及び、作家活動を振り返ってみようと思う。彼 の経歴は、「見沢知廉ファンサイト・白血球」に記された「略歴」を 参照する事にする。 

 私が、直接政治活動を始めたのが昭和50年(1975年)である。 時代は、戦後の貧しさから豊かさへ向かってまっしぐらに突き進み、 国内でのいろいろな争闘を経て、世界に類例の無いほどの経済成長を 遂げ、国民生活も中流意識が高揚し始めていた。

 国内政治は、60年(昭和35年)安保から70年安保(昭和45 年)。作家、三島由紀夫氏による「楯乃会」結成。市谷での決起・自 決事件(所謂、三島事件又は楯乃会事件と呼ばれる)。新左翼各派の 台頭、全共闘全盛期、羽田闘争や日航機ハイジャックよど号事件、連 続企業爆破事件、日本赤軍の台頭。あさま山荘事件などが連続して起 こり、そして、一段落した感のある頃であった。一般的に右翼団体各 派は「反共」を盛んに啓蒙していた。

 その年に、新右翼の教祖と世間から注目され出した故・野村秋介先 生(当時・大悲会会長)や、一水会代表の鈴木邦男氏、阿部勉氏など を知る。

 新右翼の何たるかを知れば知るほど、一般に任侠系右翼と呼ばれて いた自分の所属する政治団体とは、基本的な考え方がかなり違ってい る事を感じていた。所謂「反共右翼からの脱却」が盛んに叫ばれ出し たのが、この頃である。

 まだ、政治活動に入ったばかりで頭が固まっていない自分には「反 共」も大切な政策だが、「反共」一辺倒から右翼本来の「反権力」に 還ることは、もっと大事な根本思想であると思えた。そして、そうい う傾向の勉強会や集会などには頻繁に出席するようになった。また、 書物を読み漁った。

 しかし、この当時、自分の所属する組織からは、大東塾と新右翼の 団体には接触するなと、やんわりではあったが釘を刺されていたので ある。この年、見沢は、16歳。早稲田高校へ入学している。
(思川清風)

おもいかわ・せいふう


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