[見沢知廉ファンサイト]
[トップページへ] [見沢知廉の略歴] [見沢知廉の著書・作品] [見沢知廉の名文] [ファンサイト掲示板] [お気軽に寄稿を]
[見沢知廉の研究:目次へ]

12月8日見沢知廉墓前祭の報告・・・・・・中村幸雄

※本稿の一部はメールマガジン「殺気ある文学」に掲載した文章です※

 去る12月8日、故見沢知廉氏の法要とお墓参りが本駒込の光源寺でしめやかに行われました。9月の衝撃 的な自殺以来、追悼のために催されてきた一連の行事も本日で一段落つくようです。「しのぶ会」と同 様、見沢氏とは非合法運動時代からの盟友である木村三浩氏(一水会会長)の主催で行われました。見 沢氏のお母様、親族の方、一水会の重鎮の方々などを中心とした、見沢さんと縁故の深かったごく少人 数の集まりとなりました。ちなみに身内やごく親しい方以外でも参加できたのですが。私などがその代 表例でしょう。以下自らの日記を交えつつ、報告させていただきます。

 空が排気ガスに包まれたように暗い。地方から夜行の高速バスで東京に出てきた。夜明け前の新宿駅 西口、空には暗雲がまばらに立ちこめていた。まだ薄暗い師走の上空に、大雪のように雲が群をなして いた。もしかして今日は雨風が来るかもしれない…と思う。が、太陽が、バスケットボールのような巨 大な太陽が東から昇ってきた。アルタ前の通りを一直線に照らしていた。ビルのガラスの微妙な乱反射 が、夜の新宿を裁いて、光線の大通りをつくっていた。再び建物から外に出た時には、雲ひとつなくな っていた。空気は結晶のように透き通っていた。「おお晴れてよかった。しかも快晴ではないか。と思 った。」見沢さんの強烈な霊気が雲を吹き飛ばしてしまったのか。電車に乗るとき、ふと『囚人狂時代 』の序章を思い出した。「青空だ。染みるような青空だ。一二年間、刑務所の高い塀に切り取られ、そ の断片しか見ることのできなかった青空が、今、果てもなく俺の頭上に広がっている。」  涙腺がふと緩んだ。10年たっても同じ青い空が眼前に開けていた。あの日も快晴で澄み切った朝だっ たのだろうかと私は思いを馳せていた。

 静かな冬は宗教心を増す。

 一水会の横山書記長と本駒込駅前で待ち合わせ。見沢さんのお墓がある光源寺へ向かう。この近くに は寺がやたらと多い。歩いてすぐのところだ。幼稚園がそばにある。お寺に着くと、書記長が用事のた め、私一人に。お部屋に入ると法要の準備がしてありました。今日はお墓参りだけだと聞いていたが、 違ったのです。せっかくの機会だからと、お経もあげてくれることになったらしいのです。中には、お 母様とお寺の方しかいらっしゃいませんでした。どうやら、私が一番早く来てしまったようで…。「他 人」の私が、いいのかな、と肩身が狭かったです。記帳をして、他の人が続々と見られる前に、お母様 から、まだずっと見沢さんが生きているような、思い出話を目の前で拝聴しました。深い母と子の結び つきを感じました。それも感情的な面だけではなく、理性的な面、成熟した愛を感じさせるものでした 。例えば、よくできた家庭の中で、最愛の夫をなくした妻がそう語ります。雪山で長い苦難を共に耐え 忍んだ者が同志をそう語ります。

 悲しみを綺麗に覆い隠しておられるのですが、筒抜けに伝わってきました。 「だめよねぇ、あの人は。まだやることがたくさんあったのに、いけないよねぇ。」

 赤軍派の田中義三さんと交流のあった見沢さんはよくお手紙をもらっていたそうです。そのことを喋っ ていてのお言葉です。確かに僕がいつも持参しているサインにも「田中さん救出」の文字がありました。

 「まだ死んだのがピンとこないんです。今でも電話がかかってくるような気がして…」とよくおっし ゃっていました。

 ファンの人が作って送ってくれたという人形を見せてもらった。フェルトを張り合わせて作ったよう な平べったい人形だ。頭は茶髪、裾の短い胴衣を纏って、右手にペン、左手に紙を持っている。さらに はちまきもしていた。顔も似ていておもしろい。まさに、剣をペンにして闘う作家「像」だ。  お話を伺っているとこのお寺は、彼にとって、とても縁の深い場所だったようだ。幼年時代は近くに ある幼稚園に通っていたわけだし、今日お世話になった住職の弟さんとは同級生だったらしい。  そうこうしているうちに、続々と皆さんが来ました。野村氏の秘書だった古澤さんをはじめ、生前お つきあいのあった方々が。集まった人数は、総数で20人もいかないくらい、15人ほどでした。しばらく して、木村さん、鈴木邦男さん(一水会顧問・評論家)が来ました。両氏の銘は、卒塔婆に書かれる こととなりました。準備が行われていました。その「鈴木邦男様」「木村三浩様」という銘の隣に見沢 知廉の名がないことに、あらためて私も悲しみを覚えました。私にとって、「鈴木・木村・見沢」とい う存在は三位一体でした。それぞれ一水会の「父・子・聖霊」の象徴でした。

 住職さんがお経を読み始めました。緩くやや明るかった雰囲気が一転してきました。まるで今日の日 差しがゆっくり大気の緊張した寒さに溶け込んでいくようでした。静かになりました。皆がほとんど身 動き一つできない状態が続きました。お経という主旋律、レクイエムと調和するように、すすり泣く声 が、前から聞こえてきました。大きな無念、悔しさ、悲しみが周囲から無情に身体をつきぬけていきま した。読経のあいだ、一人づつお母様、鈴木さんと順番にご焼香を行いました。後で省みると、その仕 草が驚くべきことに皆違っていて、個々の見沢氏への思いが察せられるようでした。

 お経の後は住職さんの講話です。あいさつと、今日、掌を合わせた人すべてに見沢知廉という人の魂 は宿っているという言葉を頂きました。そして、人間の潜在意識はみな同じだ、一つだ、だから、ひと の一面だけをみて判断してはいけないというお話が中心でした。たしかに故見沢知廉というひとには多 彩な面があったものです。作家としての面、活動家としての面、もちろん母から見た息子としての面、 親友から見た面もあるでしょう。ひとは彼のすべてを知っているわけではありません。知ることもでき ません。一面だけをみて彼はこういう男なのだと判断することは実際不可能です。われわれはいろいろ な考え方、見方を柔軟に受け取らねばなりません。こういった教訓が引き出された内容でした。

 次に全員でお墓へ移動し、お墓参りをすることになりました。「夢翔院仁哲究廉居士」と戒名がはっ きり刻まれていました。まだ新しい墓石がみなに事件を思い起こさせているように見えました。各自が 線香を持ち一人ずつ参りました。終わった後に、挨拶がありました。鈴木氏は、「先日もロフトに見沢 ファンだと言う人が何人か来ました。今月の『創』には、巻頭にしのぶ会の記事が出ています。私も見 沢君のことを書いてます。これからもますます成長する作家です。」と述べました。「これからも成長 する作家」この言葉をいつも鈴木さんは繰り返している。よほど確信があるのでしょう。木村氏は、一 周忌に(8月下旬になると思うが)作品集を刊行したい。見沢氏と縁のゆかりのあった方に寄稿をお願い してまとめたものを出版したい。また本日は呼びかけがうまくいかずあまり人が集まらなかったので反 省として今後の参考にしたいと述べました。また、今日で場所がわかったと思うので、見沢知廉に何か 語りかけたいときは、ぜひここにきて掌を合わせてほしい。とのことでした。

 近くにあるお寿司屋さんのお座敷の一室で懇談会をしました。一人ずつ自己紹介をして、皆さんと歓 談したのですが、最後はやはりお母様の思い出話が中心となりました。ほんとうに、ほどけた糸を紡い で巻きなおすように、自然とお言葉が出てくるのです。みな聞き入っていました。「向こうが日本語し ゃべろっていうのよねぇ」かつて英語教師に反抗した時のことばがでてきたり、かと思えば「包丁を持 ってきて一緒に死のうって言いましたら(笑)」―(確か?)登校拒否の際、逆に?お母様がすごんだ 話まで…

 出所記念日でもある今日は当然その話題に移りました。当日の朝、「黒服の人がいっぱいいる」と、 迎えに行った方が驚いていたところ、それは全部見沢さんのお迎えだったそうです。面白いエピソード もあったのだなと聞いていました。でもやはりつらい話は多いです。

「よく帰ったねって言うと、空をずっとじっと見てるのね。しばらく空見てて、きれいで大きいなって 。狭いところしか見てなかったから。」

「(神奈川県警を見て)なんだまだくっついてきたのかって」

 無事出所したものの、受けたダメージは常識を超えていました。

「ずっと横になってました。同じ姿勢で座って何年も仕事をしたために座ることが苦痛で。5分も座ってられ ないのです。獄中では座布団がひどく薄くて。」

「医者に初めてかかったときは≪君はこの年でなぜ筋肉がないの≫と言われました。」

「12年で骨粗鬆症を患って内臓もかなり痛んでいました。」

「帰ってすぐの一年はあらゆる医者にかかりました。しかし、何年か経ってからは、医者になぜ行かな いのって聞いたら、悪いと言われるのが怖いって言っていました。」

 このように出所後のエピソードが流れるなか、時間が近づいてきました。

 最後に結びとして、「死んだ原因はわからないかもしれないけど、野村さんの手招き*1を納得しよう かと思います。まだ死んだ実感がありません。皆さんまた見沢のことを思い出してやってください。」 とおっしゃっていました。

 私は、ただのファンでした。故人とも他人でした。ひたすらお母様のお言葉を受け止めるだけで精一 杯でした。だが、だからこそ、― 今日は少人数のこともあってか、― 見沢知廉の追悼・継承をでき るだけ起こそうという気を新たにしたのでした。

 それに今日の席では、お母様を通じて見沢さんが乗り移っているようでした。 またそこらにいる気配を受けました。後ろから急に現れてもおかしくない不思議な雰囲気が漂っていま した。他にも火災報知機が鳴ったり、お寿司を落とした人がいたり変なことが起きました。たぶん、あ の世でも見沢知廉の小悪魔は健在なのでしょう。彼が喜んでいたずらをしにきたのでしょうか。

*1野村さんの手招き…見沢氏が死の前に見たとされる夢。新右翼のリーダー的存在であった野村秋介氏 がこっちにこいと手招きしたというもの。

 なお、お墓参りに行かれる方、光源寺の住所・道案内等については、正狩炎さんがホームページ のなかで詳しく書いています。 アドレスはhttp://mckan.hp.infoseek.co.jp/bosan.htm です。

なかむら・ゆきお 見沢知廉ファンクラブ白血球團 運営委員


見沢知廉氏に関する情報提供のお願い

 見沢知廉ファンサイト『白血球』は、見沢知廉氏に関する情報の寄稿を募集します。 特に政治関係・文学関係で交際のあった方、見沢氏とのエピソードをお寄せください。 事実の確認が取れ次第、このサイトに掲載いたします。
>>寄稿はこちらのメールフォームから


■著作物からの引用は、必要最小限度(法律の認める範囲内)に留めています。
■管理人・朱斑羽が執筆した文については転載自由です。
■プリントアウトに適した幅になっています。

[管理・運営 福岡情報研究所]