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【ロフトプラスワン】見沢知廉追悼イベント・・・・・・朱斑羽の報告

[ロフトプラスワンにて]

 2005年10月3日、新宿のロフトプラスワンにて見沢知廉追悼イベントが開催されました。
 今回私は初めての東京。話には聞く「新宿」の街はとてつもなく広く、騒然としていました。ある事情で地図を持って来られなかった私は、記憶を頼りに歌舞伎町へ足を進め、見当違いの方向へ行きそうになりながらもようやく目印の「新宿コマ劇場」を発見。しかしそこからがどうしても分かりません。コマ劇場の周りをぐるぐる回りながら、大勢の人の波の中で心細くなり、ついにロフトプラスワンへ電話をかけて場所を聞いたのでした。
 辿り着いた会場は、ひどく古いビルの地下。おそるおそる階段を降りるとそのお店がありました。薄暗く、いかにも怪しい雰囲気。吸血鬼の集う秘密酒場へ踏み込む心境です(失礼!)
 18時半ちょうどに到着しましたが、私がひとり目の客だったようです。ここはトークショーと飲食を組み合わせたお店です。客席はざっと50程。正面に小さなステージとスクリーン。壇上と客席はびっくりするくらい近く、期待に胸が高まります。
 今回は、ファンサイト経由で連絡を下さった或る方と待ち合わせていました。見沢文学の昔からのファンだったという男性です。開演前にお会いすることができ、なんと見沢さんの過去の作品を持ってきてくださっていました。今では入手できないものです。感激しました。

 開演は19時半ごろになりました。司会の方はズバズバとものを言いそうな男性。ロフトプラスワンのスタッフの方です。そして追悼イベント「第一部」の開始が宣言され、鈴木邦男氏・木村三浩氏・深笛義也氏が登場しました。鈴木氏は一水会の前代表、木村氏は同会の現代表、深笛氏はライターで見沢氏の昔からの友人です。第一部のテーマは見沢知廉ができるまで。政治への傾倒が見沢氏の人生の原点の一つであることから、どのようにして見沢氏が政治運動に関わっていったのかが語られました。
 最初にスクリーンに映されたのが「暴走族」の格好をした見沢知廉。見沢氏は中学時代に暴走族に入っていたと語っていましたが、壇上の皆さんは多いに疑っていました。実際は、まじめな優等生だったのではないかということです。

 左翼運動を始めた見沢知廉をよく知るのが深笛氏。見沢知廉氏は1978年3月26日の空港包囲突入占拠闘争で活躍し、5月20日の出直し開港阻止の闘争の時は後方支援にあたる「野戦病院」で深笛氏とキャンディーズの話をしていたそうです(トークを聞いたとき、見沢氏は活躍していなかったんだと思い込んでしまいましたが、実際には活躍していたという指摘を深笛氏から受けました)。
 見沢氏は左翼運動に満足できず、新右翼の一水会に入ります。同時期に日本学生同盟にも所属していたようです。当時の一水会は現在と違って非合法活動も行なっていました。後に鈴木氏がソフト路線へ向かったのは見沢事件に懲りたことが理由だったようです。

 見沢氏が一水会で活躍したのは半年に過ぎませんでした。この間に見沢氏は多数の論文を発表し、多数のゲリラ活動を行ないました。そしてついにスパイ粛清、逮捕。長い獄中生活が始まります。獄中の見沢氏に対し一水会は手厚い支援を行なっています。
 深笛氏の言葉で印象的だったのは、「見沢は常に自分を文学へ追いやっていったのではないか」というものです。政治活動そのものが目的なのではなく、根本にあるのは常に文学だった。左翼活動中も、見沢氏は小説を書くことを決して止めなかったそうです。

 第二部は雨宮処凛さん・切通理作氏・佐伯紅緒さん・土屋豊氏が登壇。テーマは文学者としての見沢知廉です。雨宮さんはいま流行りのロリータファッション。佐伯さんは元モデルだけあって凄い美人。ステージが突然明るさを増したのでした。土屋氏は『新しい神様』という映画の監督で、雨宮さんはその主人公でした。『新しい神様』は雨宮さんの右翼バンドを取材する内容で、実はこの右翼バンドを影でプロデュースしたのが見沢知廉でした。自己顕示欲旺盛な見沢さんがさりげなくカメラに映りたそうにしていたので仕方なくインタビューしたけれど、キャラクターが強すぎて中途半端に映画に使うことはできなかったと監督が語ります。
 雨宮さんはバンドを解散した後、見沢氏の勧めで文学の道へ。そして師匠として見沢氏は「命がけで小説を書け」と教えます。本当に文学に命を削る師匠を目の当たりにした雨宮さんは、逆に文学にすべてを捧げることができなくなってしまったそうです。
 第一部では見沢知廉の死は少なからず政治的な死であったのではないかと語られましたが、第二部では文学的な死ではないかと語られます。土屋監督は、「綺麗な夕焼けを見ているうちに、ふっとその綺麗な世界に行きたくなってしまったのではないか」と言います。雨宮さんと同じく、見沢知廉の文学の弟子である佐伯さんは、死の直前まで見沢さんは元気で、薬を飲んでいる様子もなかったと証言。皆さんに共通するのは、見沢氏は、本当は死ぬ気はなくて、でも潜在的な死への欲求がちょっとした拍子に出てしまったのではないかということでした。

 見沢知廉が何故死んだのか。たくさんのことが語られましたが、真実はもはやわかりません。第三部では、やはり薬が原因だったのだという説が現れます。晩年の見沢氏を支えた男性が、「見沢さんは(死の一年前まで)病院を三軒まわって薬を服用していた」と証言します。見沢氏が薬漬けになったのは、獄中でたくさん投与されたのが原因のようです。もっとも、急逝するまでの一年間は薬への依存は克服していたようです。いずれにせよ、見沢氏の死は明確な意思による自殺ではなく、一種の事故のようなものではないでしょうか。精神薬依存や拘禁症などの後遺症、スパイ粛清事件への贖罪意識、文学活動の停滞、政治への絶望・・・・・・そのどれもが複雑に絡まって、本人が明確に意識しないまま死んでしまった。そんなふうに思います。

 第三部で登場した塩見氏は獄中20年。ご自分の経験から、見沢は出所後あまりに目まぐるしく活躍しすぎたのだ、もっと静かに暮らして社会に慣れるべきだったと語ります。獄中デビューした見沢氏は、出所後すぐに多数の講演や連載をこなすようになります。独居房で長年拘束されると、殆どの人は社会復帰できず、結局廃人のようになってしまうそうです。まさに見沢知廉の活躍は超人的なものと言えます。しかし晩年には体調が極めて不安定になり、入退院を繰り返していました。そしてようやく肉体的にも精神的にも安定を取り戻し、新作発表も決定していた段階での急逝でありました。

 今回のトークショーで語られた見沢知廉像は、実に多くの顔を持っていました。10人の友人がいれば、そこに10人の見沢知廉がいるのです。私は、それぞれの方が語る見沢知廉の姿にいちいち納得し、圧倒され、混乱しました。いったい見沢知廉とはどんな人だったのか、とてつもなく、その存在感は大きなものになっていくのを、空恐ろしく感じてしまうのです。見沢知廉のインタビュー映像なども放映されました。飄々としつつも、何か強い芯を秘めて、少年のような表情を見せるかと思うと、演説の顔がみるみる鬼神のごとく変貌する・・・・・・。私は、見沢知廉はなんて美しい人だったのかと、思いました。そしてこんなに愛されながらも死んだ見沢知廉を思うと、なんともいたたまれない気持ちになってしまうのでした。今回のイベントは決して暗いものではなく、むしろ爆笑の絶えることが無いほどでした。見沢知廉のキャラクターは、語りつくせないほど強烈だったのです。

 鈴木邦男氏が述べられた言葉で印象的だったのは、見沢知廉は何を言われても良いんだということです。三島由紀夫が死後30年を経過しても、色んなことを語られるように、見沢知廉という作家も、これから語り継がれて、死後に成長する作家なのかも知れません。私も、見沢知廉が忘れられないよう、その作品がずっと読み継がれるよう願い、伝えていきたいと思います。

 ロフトプラスワンに行って本当に良かったと思います。ここに記した報告は、私の主観をもとにしていますので、トークショーの内容を正確に再現したものではありません。ですから、参加者の皆さんが仰りたかったことを忠実に書けているかはわかりません。もし意図を曲げていたとしたら申し訳ないと思います。この文章を読まれる方は、その点差し引いてお読みください。ただ私は、会場の熱気に最後まで圧倒されてしまっていました。

 イベントが終了したのは零時半過ぎでした。私が会場にいたのは6時間に渡りました。上京中滞在していた知人宅への終電はすでに無く、インターネットカフェを探して仮眠をとりました。見沢知廉へ想いを馳せながら・・・。(朱斑羽)
 ※10月10日、一部訂正して更新。

しゅ・はんう 見沢知廉ファンクラブ白血球團 運営委員


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