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【日本出版クラブ会館】見沢知廉を偲ぶ会・・・・・・朱斑羽の報告

[見沢知廉遺影]

錚々たる人士、集う。

 平成17年11月5日、東京都新宿区袋町の日本出版クラブ会館にて見沢知廉を偲ぶ会が行なわれました。参加者は生前の見沢氏と親交のあった方々が中心でしたが、私もファンサイトを開設したことでお誘いを受け、上京した次第です。
 夜行バスにて当日朝に東京入りし、ファンクラブを手伝ってくれる女性と落ち合ってチラシ印刷のためにキンコーズへ行き、100枚ほど刷って会場へ向かいました。不案内な東京の街を歩き回り漸く会場に着いたのは開始の寸前でした。入り口で挨拶を済ませて会場に入るとすでに鈴木邦男氏をはじめ錚々たる人士が顔を揃えておられました。場違いな自分たちではありましたが、勇気を振り絞ってファンクラブへの参加を呼びかけるチラシを配らせていただきました。会場の隅におられた塩見氏にもにこやかに応えていただき、激励くださいました。鈴木邦男氏には一水会の方、義勇軍の方、群青の会の方を紹介していただきました。
 はじめは会場を歩き回ってチラシを配っていましたが続々と来場者が着始めたので入り口で配ることにしました。すると作家の安部譲二氏や写真家の荒木経惟氏などの著名人まで現れ、ますます恐縮してしまいました。
 そうこうしているうちに木村三浩氏の司会で偲ぶ会が始まりました。ミュージシャンであるPANTA氏の発声で見沢知廉に献杯し、次々に挨拶が行なわれました。評論家の福田和也氏や作家の島田雅彦氏なども挨拶に立たれました。島田氏の「作家は自分が不幸だと思わなくては続けられない。しかし、本当に不幸な作家は少ない。本当に不幸な作家こそが、本物の作家のなのかも知れない」という言葉が深く心に残りました。

[挨拶する福田和也氏] [錚々たる名士が集う]

美しい、男の遺影。

 会場中央には銀屏風が置かれ、ささやかな祭壇が設けられていました。荒木氏が「ダビンチ」誌のために撮影した見沢知廉の肖像写真が大きく掲げられ、そのまえに小さな位牌が安置されていました。挨拶を求められた荒木氏は一言、「いい写真だろ。私は、好きになった男を美しく撮る。ただそれだけだ」と述べ、会場の皆さんを感動させたのでした。
 安部譲二氏の言葉も感動的でした。「私はもう殆ど外へは出ない。しかし今日は、見沢君に呼ばれて、見沢君を囲んでみんなで飲んでいるんだと思うとじっとしていられなくなって出てきた。見沢君は親不孝だけれども、でもお母さん、息子さんはこんなにも大勢の人に愛されていたんですね」…訥々と語りかける安部氏の言葉に一同、改めて涙を拭うのでした。
 その他にも鈴木邦男氏、深笛義也氏、塩見孝也氏、雨宮処凛さんなど多くの方がスピーチを行い、見沢知廉の冥福を祈りました。統一戦線義勇軍の方や「民族の意志同盟」の方もスピーチされ、政治運動家としての見沢知廉を語りました。まさに千の顔を持つ男、それが見沢知廉なのでした。
 歓談中に「ファンサイトをみました」というファンの方に何人もお会いすることができました。「ファンクラブに入るにはどうしたらいいの?」と声をかけてくださった方も何人もおられました。いよいよ責任の重大さを感じ、同時に活路を見出した思いです。
 会場には見沢知廉の写真がたくさん展示され、幼少時代からの見沢知廉をみることができました。驚いたことは、見沢知廉のお父様の若いころが後の見沢知廉に瓜二つだったということです。まるでクローンのようでした。文学にはあまり登場しない見沢知廉の父親像ではありますが、実はお母様に負けないほどに獄中の見沢知廉を案じ、支援しておられたそうです。
 最後に見沢知廉の御母堂が挨拶されました。毅然としつつも、時折言葉が詰まる様に、会場のあちらこちらからすすり泣きが聞こえてきました。「息子は亡くなりましたが、みなさんどうか時々見沢のことを思い出してやってください。そうすれば見沢はすぐに、みなさんのお側へ飛んでまいります」と、参加者に願いを託されたのでした。

[展示された写真] [女性に人気のあった見沢知廉]

見沢チルドレンが集まった

 司会の木村三浩氏には見沢知廉ファンクラブの紹介もしていただきました。「今日この会場には見沢知廉の志を引き継ぐ見沢チルドレンともいうべき若者たちや、見沢文学を愛するファンクラブの皆さんも来ています」という暖かいお言葉でした。私たちは改めて見沢知廉を世の中に再評価させるべく運動していこうという決意を新たにしたのです。
 二次会は日本出版クラブ会館の一階で行なわれました。その場では鈴木邦男氏・中森明夫氏・雨宮処凛さん・土屋豊監督などと同席させていただくことができました。中森明夫氏は繰り返し「見沢知廉はかならずこれから人気が出てくる」と仰いました。死の直後はたいして話題にならなくても、数年して急に人気の出てくる作家や歌手の例はたくさんあるそうです。映画化も夢ではないだとうという話がでたとき、見沢知廉役は誰がいいだろう?という話題で盛り上がりました。見沢知廉は二枚目だから、やはりジャニーズ系がいいだろうということで、岡田准一なんかぴったりじゃないかという結論に至りました。また、見沢文学には性描写が少ないが、実際の私生活ではどうだったんだろうという話題になったときに鈴木邦男氏が意見を求められましたが、「僕にもわかんないよ」という反応でした。鈴木氏は面白い話になると独自の笑い声をあげながらまるで子供のようにぱちぱちと手を叩く癖があり、愛嬌に溢れています。女性に人気のあるのが肯けました。
 もうひとつ、見沢知廉も太宰治や三島由紀夫のように「○○忌」と名づけて毎年やったほうがいいんじゃないかという話になり、中森氏は「やっぱり『調律の帝国』が代表作なんだから『調律忌』はどうだろう」という提案でした。鈴木氏は私に向かって「おい、白血球君、何か考えてくれよ」と仰り、私は(『調律忌』もいいけど他に合う作品あったかな…)と暫く考え込んでしまいました。

「蒼白忌」なんてどうでしょう

 頭の中で作品を一個一個あげながら、「天皇忌」(『天皇ごっこ』)はやばいよな…「日本忌」(『日本を撃て』)は意味がわからないな…「囚人忌」(『囚人狂時代』)はなんかいやだな…「テロ忌」「サイコ忌」??…と消去法で考えた結果、残ったのは『蒼白の馬上』からとって「蒼白忌」。おそるおそる鈴木氏と中森氏に「あの…蒼白忌なんてどうでしょう?」と言ってみたところ「おお、いいねえ。さすが見沢チルドレンの杉村太蔵だ」と分不相応のお褒めの言葉をいただきました。『蒼白の馬上』は『調律の帝国』ほどには評価されていませんが、個人的にはとても好きな作品です。もっとも見沢知廉らしい作品だと思います。このネーミングはファンクラブのほうでも提案してみたいと考えています。
 二次会がお開きになっても名残惜しくたむろっていると、鈴木氏が三次会へ行こうと提案してくださいました。残ったのは20名弱。近くの居酒屋を探すということになったのですが、そこで鈴木氏が私に「おい、杉村太蔵。君が先導して店を見つけなさい」と指令を下したのです。「先生、僕は田舎者で東京は右も左もわからないのですが…」と焦って抗弁しても酔い心地の鈴木先生は聞いてくれません。仕方なく一路歓楽街を目指しました。錚々たる、物騒な人々を先導する大役に慄きながらお店を探してきょろきょろしていると心優しい土屋監督が「こっちのほうにたくさんお店があるよ」と教えてくださいました。ありがたくて泣きそうでした。走り回って漸く小さな居酒屋を見つけ、一堂が席に着くとたちまち店が満員です。ここでも私は緊張しつつ、またとない有意義な時間を過ごすことができました。
 今回の偲ぶ会でお会いした多くの皆さんがファンクラブについてご理解くださり、協力を申し出てくださいました。三次会にはコアマガジンの方もおいでになり、近く「バースト」誌で見沢知廉追悼特集を組むかもしれないということでした。ファンクラブとしても、見沢知廉がいつの日か、これまで以上に注目されるように活動していきたいと思います。
 今回はほんとうにたくさんの貴重な出会いがありました。出会った全ての皆さんに、心から感謝申し上げます。(朱斑羽)

※11月18日、一部修正致しました。

しゅ・はんう 見沢知廉ファンクラブ白血球團 運営委員


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