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雨宮処凛(作家) 転載元:雨宮処凛公式サイト


9月8日(木)

 絶句です。
 見沢知廉さんがお亡くなりになりました・・・。
 ショックでショックで、呆然としています。
 見沢さんはこのサイトに掲示板があった頃、何度か書き込みもしてくれたので、その書き込みを見られた方もいるかもしれません。

 見沢さんの訃報を知り、見沢さんが与えてくれた影響の大きさを思い知りました。

 そもそも見沢さんと会っていなかったら私は今こうして文章を書いて生計を立てるという生活をしていないでしょう。見沢さんがいなければ右翼団体にも入っていなかっただろうし、それだったら「新しい神様」という映画もなかっただろうし、映画がなかったら本を出すこともなかったと思います。

 見沢さんとは20歳か21歳頃、移転する前のロフトプラスワンで会いました。その前から見沢さんの文章をよく読んでいたので、見に行ったのです。そして知り合い、これはいろんな所で言ってるのですが、「はじめてのデエト」が某右翼団体の集会でした。見沢さんからリタリンをもらった私は集会で思いきり覚醒し、その団体に入りました。それから「維新赤誠塾」という右翼バンドを組み、初ライヴに見沢さんは何万円もする「花環」を出してくれました。ライヴハウスにあまりにも不似合いな花環、という図の写真は、維新赤誠塾のCDの裏ジャケットにも使われています。維新赤誠塾のライヴにはよく来てくれて、当時まったくの無名だった私たちのバンドは、「BUBKA」や「BURST」という見沢さんの連載している雑誌で紹介して頂きました。この前、ここにも書いた「私が初めて載った雑誌」での対談も、対談相手は見沢さんでした。今から思えば相当お世話になり、そして見沢さんがいることによって相当いろんなことから守られていたのでしょう。当時の私は無知ゆえの怖いもの知らずでそんなことに気付きもしなかったのですが、二十歳そこそこのワケのわからない女がいろいろな政治団体やおかしなイベントやマスコミなんかに出入りしていてまったくの無傷でいられたのは、ひとえに見沢さんの力かもしれません。

 「新しい神様」では特効服姿で予告編にも出て下さり、その後、本を出版するにあたっては印税のことや出版社とのやりとりといったことを細かく教えてもらいました。

 ここ数年、体調が悪く、あまり御会いすることもなかったのですが、電話では話していました。最近は体調もよくなってきた感じで、「群像」にも原稿を書いたりしていて、完全復帰するものとばかり思っていました。

 見沢さんには、「AK47」や日本刀のレプリカを借りたままです。借りたまま返さずにいるDVDもあります。どうすればいいんでしょう・・・。

9月9日(金)

 見沢さんの御葬式はもう終わったみたいだ。

 見沢さんから預かっていた小説の原稿があるので、整理しようとひっぱりだしてきたら、見沢さんからの手紙が出てきた。解読不可能なほど汚い字なので、いつもちゃんと読もうとせずにそのままだった。今日、頑張って読んでみたら、思わず泣きそうになった。
「俺もやっと小説本腰入れるんでこれからはやっと協力しあえるな」「(大切な)小説の時はペン入れ地獄があるからデビューの時みたいに血を吐いてふんばれよ」「シャブは絶対やるなよ! そういう噂がありそこまで名声いったんだから足すくわれないようにな」

 見沢さんがすごく心配してくれていたということを、今さら思い知って死ぬほど切なくなった。

 政治的な活動ということでも見沢さんから受けた影響ははかり知れないけれど、小説に関しての影響はもっと大きいかもしれない。「文学」という言葉を当たり前に口にする人は、見沢さんが初めてだった。そして本気で「文学」をやっている人も。その見沢さんの姿を見ていたから、私は小説や本を書くことで苦しくても、見沢さんがもっと苦しんで書いていたことを知っていたから乗り切れた部分があった。血を吐いてまで書くことの覚悟が決まったのは、見沢さんの姿を見ていたことが本当に大きい。とにかく、見沢さんは本気で「文学」をしていたのだ。不器用すぎるほどの真剣さで。ある小説のペン入れが苦しくて見沢さんはリタリン中毒になったと言っていた。本当に、死ぬほど不器用だと思う。そんな見沢さんを見ていて、私はたくさんの逃げ場を用意するようになった。だって見沢さんのように生きていたら、絶対に死ぬと思ったから。そういう自分がひどく卑怯な気がするけれど、生の見沢知廉を見ていたことが、私にとって一番の、小説の勉強になった。「作家・見沢知廉」のファンだった私は、何時間でも見沢さんの小説の感想を言い、質問をした。見沢さんはいつもそれに丁寧に答えてくれた。その後文章を書くことなんてまったく想像していなくて、今後どうやって生きていこうか迷いまくっていた私にとって、そのことは後々すごく重要な意味を持った。

 それなのに私は、アホなことばかりしていた。当時人形作家見習いだった私に見沢さんが「三島人形」を注文してくれたことがある。私は頑張って作り、自分でも納得できる出来栄えだったその人形を、見沢さんに十万円というある意味法外な値段で売りつけた。今考えても、自分の馬鹿さ加減に泣けてくる。だけど見沢さんは喜んで、十万円をポンと払ってくれた。貧乏フリーター(というか今でいうとほとんどニート)に、その十万円がどれほど有り難かっただろう・・・。

 見沢さんっ、小説を書く時は血を吐いてふんばりますっ!
 そして、シャブはもう絶対やりませんっ!(見沢さんが書いていた"知人から聞いたシャブ体験談"って、実は結構私の情報提供も多いのだ。そういう意味では、少しは役に立ってたのか・・・)

追記
 見沢さんとマリスミゼルのライヴに行った時のこと。ライヴが終わり、楽屋でメンバーに見沢さんを紹介すると、メンバーの中に見沢さんを知っている人がいた。話が盛り上がり、メンバーが「今度ゲリラライヴするんですよー」と言うと、何を勘違いしたのか見沢さんは、「ゲリラ?俺もしたことあるよ。イギリス大使館火炎瓶ゲリラ」とさらっと言った。メンバーはちょっと固まっていて、話がまったく噛み合っていなかったことがとても面白かったことなどを思い出している。


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