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鈴木邦男(元・一水会代表) 転載元:鈴木邦男をぶっとばせ!


今週の主張 9月19日 何で死んだんだ!天才作家・見沢知廉氏を惜しむ

(1)三島賞の最終候補にまで残ったのに。でも…
 まずは選挙の話から。まるで戦国時代ですね。裏切り、造反、制裁、刺客、くの一(女忍者)が入り乱れ、壮絶な死闘を繰り広げました。そして、「9.11同時テロ選挙」は自民党の圧勝に終わりました。亀井静香は、「日本は大変なことになる」「仲間を殺すことばかり考えている今の自民党は子供の教育にも悪い」と言ってました。
 でも、知り合いの鈴木宗男氏、辻元清美氏は当選しました。保坂展人さんも逆転当選しました。よかったですね。それと、驚いたのですが、自民党圧勝のあおりでしょうか。自民の井脇ノブ子さんが当選しました。長い間、選挙に挑戦し続け、「もうだめだろう」「もう、やめたら」と周りからも言われてました。それが、やっと当選です。おめでとうございました。
 実は、この井脇さん。生学連、全国学協の同志なんです。私の後輩です。犬塚氏、四宮氏、阿部氏などと、民族派学生運動を闘ってきた仲間なんです。
 それに、全国学協が出来た時、私は委員長でしたが、井脇さんは副委員長でした。ただ、僕は活動家としては無能で、人望がなくて、1ヶ月で委員長の座を追われました。二代目委員長になったのが吉田良二氏です。とても穏やかで、人望のある人でした。暴力派の私とは対照的でした。その吉田氏は先月亡くなり、8月10日、落合葬場で葬儀がありました。
 全国学協がらみで、明暗二つの出来事がありました。全国学協といえば、中央委員をやっていた衛藤晟一氏も、その後、政治家になり、大分から出ていました。しかし、今回は残念ながら落選しました。でも、実力のある人ですから又、返り咲くでしょう。又、友人の小林興起氏も落選しました。その上、バッシングの嵐です。かわいそうです。
 井脇ノブ子さんの話ですが、彼女は、ずっと水泳をやってました。私が生学連(生長の家学生部)の書記長をやっていた時、よく九州にもオルグに行きました。そして、「ぜひ、自治会選挙に出ろ!」とハッパをかけました。全共闘に対抗するために、我々民族派学生も自治会選挙に打って出ようとしたわけです。それで、10大学以上で勝利しました。井脇さんも大分の大学で自治会委員長になりました。その時から、〈政治〉に目覚めたのかもしれません。
 生学連は、さらに大きくなって全国学協になり、それが中心になって、全国の自治会をとる。そして、「民族派全学連」をつくる!という勢いでした。長崎大学自治会の犬塚氏が、「民族派全学連」委員長に予定されてました。ところが、日学同との内ゲバで、それは夢と終わりました。
 井脇さんは全国学協の活動を続け、その後は「少年の船」をつくったり、静岡で高校をつくったりと活動し、その間、選挙にもずっと挑戦し続けてきました。しかし、落選につぐ落選でした。又、自分の経営する学校で不祥事があり、マスコミで大々的に叩かれました。又、個人的なスキャンダルも写真週刊誌で報じられました。「井脇さんはもう終わった」と皆に思われました。ところが、不死鳥のように復活しました。国会議員になってしまえば、過去の事件も、消えます。「あっ、そんなこともあったな。よく頑張ったな」と、〈思い出〉になります。
 見沢知廉氏にとっては、〈過去〉を消してくれるものは「文学賞」だったのです。過去の不運な出来事にも、それで帳尻を合わせられる。そう思ったのです。さて、ここからが本題です。かつては、新左翼過激派にいて、成田闘争を闘い、火炎瓶を投げ、その後、新右翼(一水会)に転向。そこで「スパイ粛清事件」を起こし、12年間刑務所に。出てきて、すぐに『天皇ごっこ』で新日本文学賞をとりました。もう、ただの「殺人者」ではない。作家です。そして、続けざまに、『囚人狂時代』(8万5千部)『母と子の囚人狂時代』『調律の帝国』(三島賞最終候補になりました)を出します。この4冊は新潮文庫に入っており、合計で20万部、出ております。もう、大作家です。
 でも、「スパイ粛清事件の見沢」「過激派くずれ」「右翼過激派」というイメージがついて回ります。右翼のプロパガンタの為に、作家の仮面を被っているのではないか。とも誤解されました。ともかく、まだまだ〈本物〉になってないと、本人は焦っていました。「やはり芥川賞をとらなくては」「その前に、三島賞だ」という思いがありました。又、出版社も、そう言って励ましました。本人には、喜びでもあり、プレッシャーでもありました。活動家時代に書きためた、軽く、楽しい原稿もありました。しかし、「それは賞をとってから出しなさい」と言われたのでしょう。あるいは、本人が自制したのかもしれません。
 対談、座談会をやり、もっと軽い、楽しいものをセッセと一杯書けばいいじゃないか、と僕は言ってたんですが、「いや、それで終わりたくない」と言ってました。ともかく、大きな賞をとる。その後ならば、何をしてもいい。そう思ったのです。
 大学教授を目指す教員も同じでしょう。国会議員を目指す人も同じでしょう。万人が認めてくれる「もの」が欲しい。「印」が欲しい。それを取れば、あとは、好き勝手なとこができる。政治家にだってなれるでしょう。
 今、好き勝手なことをやっていたら、三島賞も芥川賞も、どんどん遠ざかってしまう。だから、それはセーブして、ともかく、純文学を書かなくてはならない。そう思い、身を削り、命を縮めて小説を書いてたんです。又、三島賞は、最終候補まで残り、かなり近かったといいます。それさえ取れば、何をやっても許される。過去も〈思い出〉になる。「こんな大変なことがあり、そんな苦労もあったから、今の三島賞作家の見沢がいる」と、皆、言ってくれる。そこでなら、かつての粛清事件も「作品」として堂々と書ける。早くその日がくればいい。そのためにも三島賞だ。
 そうプレッシャーをかけられ、自分でも追い込んでいったんです。大変な仕事だと思います。大変な苦悩だったと思います。それに僕らも気づかなかったわけじゃありません。分かっていました。でも、「強い男」だと思ってました。あの、スパイ査問・粛清事件の時も、全く弱音を吐かない。ビビらない。「冷静な強靱な精神の男」だと思いました。それは、「週刊SPA!」の「夕刻のコペルニクス」でも、何度か書きました。12年間、刑務所にいる時だって、殺した人間を思い出してうなされたなんて一度もないと言います。冷酷なほど強い男なんだ、と痛感しました。だから自殺するなんて夢にも思ってなかったんです。

(2)前日、見沢氏の死を予言した男がいた
 最近は、躁鬱病だったようです。いや、12年獄中にいて、そこで拘禁性の躁鬱病になり、大量に薬を投与され、体を壊したのかもしれません。出所してからも、その後遺症で苦しんでました。時には、妄想を語ることもあり、電話や手紙で、訳の分からないことを喋り、口走ることもありました。
 病院にも入退院を繰り返してました。「もう見沢はダメだよ」と言う人もいました。僕も、トークなどに引っ張り出そうとしたことがありましたが、全て、ドタキャンされてしまいました。
 最近では、8月23日(火)に、ドタキャンした話を聞いてました。浅草の木馬亭で民族派若手のトークがあり、見沢氏も予定されてました。ところが、「体調が悪い」とのことで、ドタキャンしました。ただ、電話には出てくれて、見沢ファンの女の子と会話をしたりしたそうです。
 「ああ、やっぱり」と思いました。だから、9月13日(ライブ塾)だって、ドタキャンされるかもと思ってました。「その時は二人でやりましょう」とPANTAさんに言ってました。当日、「調子が悪い」と電話があるかもしれない…と。ところが、こんな形でドタキャンされるとは思いませんでした。究極のドタキャンです。最後のドタキャンです。
 どうせドタキャンかもしれない。なんせ、体の調子は悪いんだもん。と思ってました。又、時々、変なことを口走るということも知っていました。でも、まさか自殺するとは思ってませんでした。そんな可能性は1%も考えませんでした。だって、何度も言うように、「強い男」だと思ってましたし、あの事件で見せた彼の超人的な強さ。精神的強靱さは、ずっと印象づけられてたからです。
 今から思うと、強さと弱さの両極端を持った男だったのかもしれません。それに、賞をとらなくてはと、プレッシャーに苦しみ、本当にきつかったのでしょう。そして、マンションの8階から夕陽をみつめた一瞬、ふっと、死を考えたのかもしれません。
 9月9日(金)の午後2時から五反田の桐ケ谷斎場で見沢氏の密葬が行なわれました。家族と、それに新潮社などごくごく親しい人だけが集まりました。私も参列しました。
 お母さんが言ってました。「9月13日はとても楽しみにしてたんですよ」と。これで、リハビリのスタートになると思ったようです。「髪も染め直さなくっちゃ。服は何を着ていこうかな。そうだ、新しい服を買わなくっちゃ」と、ハシャいでいたそうです。
 PANTAさんとは以前、対談をして、それが『暴走対談』((株)コアマガジン)という本の中に入ってます。出所直後です。私も対談しています。
 ともかく、PANTAさん、そして私に会えるのを見沢氏は楽しみにしてたそうです。だから、当日も多分、霊は降りてきて、参加してたでしょう。私には見えました。
 そうだ。思い出した。奇妙な体験があったんです。
 見沢氏が自殺したのは9月7日(水)の夕方5時半です。横浜のマンションの8階から飛び降りたのです。即死でした。遺書はなかったそうです。
 でも、毎日、大学ノートに書き続けていたものがあるそうですから、それは見せてもらおうと思います。
 さて、9月7日(水)の夕方に亡くなったのですが、実は、その時間、正確に言えば、9月7日(水)の午後5時半に、私のところに電話がありました。見沢氏をモデルにした小説を書いている女性作家からです。そして何とも奇妙な、不思議なことを言うんです。「見沢さんは元気?まさか死んでないでしょうね」と。
 何言ってんだ、この女は、とムッとしました。「見沢は元気だよ。ついこの間も電話で話したよ。なんせ9月13日にトークをすることになってんだよ」と私はぶっきらぼうに答えました。それにしても、何で、そんな変なことを言うんだ、と聞きました。
 「だって、きのう、鈴木さんが私の夢に出てきたじゃないの」
 そんな…。他人の夢に入って行った覚えはないよ。
 「突然、私の夢に出てきたのよ。鈴木さんが。そして、『おい、見沢が死んだぞ!って言ったのよ」
 何をバカなことをと、笑ってしまいました。

(3)見沢氏は死後も成長し続ける作家だ
 ところが次の日(9月8日)の朝、友人に、見沢氏の死を知らされました。嘘だろうと思いましたが、見沢氏のお母さんと話して、本当だと分かりました。さらに、女性作家から電話が来た時間に死んだんです。驚きました。
 もしかして、見沢氏が自殺して、その直後に、何らかの方法で、ニュースを知り、私にかけたのか、と思いましたが、5時半よりも電話が来たのは前のようです。念のため、今、本人に電話して確かめました。事実経過はこうです。
 9月6日(火)の夜、夢で私が言いました。「おい、見沢が死ぬぞ!」と。「死んだぞ」じゃなくて、「死ぬぞ!」と言ったそうです。「もう見沢はダメだよ。今月中に死ぬよ」と、私が言ったそうです。
 9月7日(水)の朝、起きて、はっきりと覚えていたそうです。「ひどい人だ。鈴木さんは。見沢さんとは親友なのに、そんなことを言うなんて」。そう思い、ポストをのぞくと、私からの手紙が入っていた。「9月8日ロフト」と「9月13日ライブ塾」の案内でした。奇妙な偶然もあるもんだなと思いました。彼女は、午後3時半にタレントの友人に渋谷で会いました。喫茶店に入って、「そうだ。鈴木さんに電話してみよう」と思いました。多分、4時半か、5時位でしょう。まだ見沢氏は生きてました。
 そして、「変なこと言わないでよ。見沢は死ぬぞ!なんて言ってたわ」と私は責められました。その直後に、渋谷から遠く離れた横浜で、見沢氏は飛び降りたのです。
 「じゃ、俺が見沢を殺したのかよ!」と私は思わず声を上げてしまいました。何も話をつくってるわけじゃありません。見沢氏の氏の直前に女性作家から電話がきたことは電話局の記録を見れば分かるでしょう。そうか。少なくとも何時だったかは、記録に残って、出てくるんだ。又、盗聴している公安だって、ちゃんと話の内容を記録してるでしょう。
 それに、この話は、「証人」も沢山います。渋谷から電話した時、隣りにはタレントの女性がいました。その人も、はっきり、証言してました。
 実は、その作家とタレントは9月8日(木)のロフトに来たのです。終わって、近くの「ルノアール」で詳しく聞きました。その場には、「創」「WAVE出版」「家の光」の編集者もいました。だから、本当のことです。マスコミ関係の証人もこれだけいるのですから。
 しかし、不思議ですね。それだけ、その女性作家が見沢氏と深く精神的に結びついてたのでしょうか。あるいは私に予知能力があったのでしょうか。前の日に分かっていたら、横浜に駆けつけてやればよかったのにと、悔やまれます。
 9月8日のロフトでは、斎藤貴男さん、森達也さんと、警察、公安の話をしたのですが、前半は見沢氏の話ばっかりになってしまいました。
 又、9月9日(金)は、「山岡俊介さんを励ます会」でしたが、やはり、見沢氏の話ばかりになりました。
 9月13日(火)にPANTAさんと会った時もそうでした。見沢氏のビデオも流しました。2002年3月17日にフジテレビの「新・平成のよふけ」に出た時のビデオです。鶴瓶、ナンちゃんと一緒です。話してる内に、いきなり、ナンちゃんの頭をポカリとやっていました。「昔はこんな風にヤキを入れられたんです」と、頭をポカリです。ナンちゃんもムッとしてたんでしょうが、そこはプロ。本番中だし、こらえて苦笑いしてました。
 見沢氏と最後に会ったのは6月10日(金)の夜でした。椿山荘で池内ひろ美さんの『妻の浮気』(新潮社)の出版記念会があり、そこで会ったんです。一緒に撮った写真を載せときましょう。この時は元気一杯でした。そのことは、このHPにも書きましたね。その椿山荘で、9月13日(火)のトークのことが決まったのです。自分から、やりたいと言い出したのです。「でもお前はドタキャンの名人だからな」と私が言ったら、「必ず行きますよ」と言う。でも私は不安だったから、「じゃ、PANTAさんと三人でやろう」と提案したのです。これだったら、もし見沢氏が来れなくても、PANTAさんと二人でやれる。そう思ったんです。その時、来れたら、じゃ、次は二人でやろう。そう思ってたんです。


 でも、9月13日はやっぱり見沢氏は欠席でした。ドタキャンは予測してたけど、こんな形でのドタキャンは予測してませんでした。ましてや、前日に、「見沢は死ぬぞ」なんて予言するはずはありません。
 新潮社の人が言ってましたが、これから、さらに何冊か見沢氏の本が出るそうです。又、他の人たちも書くようです。私も、書きたいです。又、一水会でもレコンキスタに載せたのをまとめようという話もあります。さらに、対談、トークなども、まとめて出るでしょう。DVDなども。
 ですから、これからもますます成長し続ける作家です。


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