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【異色作家 故・見沢知廉との事ども】連載(4)・・・・・・(思川清風)

※メールマガジン「殺気ある文学」に掲載した文章です※

 昭和53年暮れ、私は、突然二人の訪問を受けて一瞬驚いたが、話してみる と非常に共感するところが多かった。三人は、今後団体の枠を超えて共闘する ことを申し合わせた。年が明け、54年2月11日、建国記念日に、「紀元節 奉祝某県大会」の名称で日の丸行進をおこなった。約30名の若者が県庁所在 地の目抜き通りを大中小の日の丸を翳して練り歩いた。この行事は、昭和60 年まで続き、年々団体も参加者も増え、61年に「日本を守る某県民会議」主 催の行事に合流するまで続いた。      

 昭和54年5月25日、私にとって衝撃的な事件が起きた。大東塾の影山正 治塾長が、「一死以って、元号法制化を熱祷し奉る」「民族の本ついのちのふ るさとへはやはやかへれ戦後日本よ」の辞世を残し、東京青梅の大東農場内で、 割腹の上猟銃で自決されたのである。つい先日の4月3日に、昭和20年8月 25日、東京代々木で父上の影山庄平翁はじめ集団自決された、いわゆる「大 東塾十四烈士」の御霊を祀る「大東神社」が創建されたばかりであった。私は、 これまでなかなかお会いする機会に恵まれなかったが、共闘関係にある塾関係 者のN氏が、そろそろ合わせてくれる手筈になっていたので殊の外落胆が大き かった。  

 昭和56年「反米愛国・抗ソ救国・民族自決・反権力」を掲げた新右翼の連 合体である急進組織「統一戦線義勇軍」が結成され、木村三浩氏が初代議長に 就任した。義勇軍は、それまでの右翼各派とは異なって、マスコミ戦略にも長 けていた。政策も、日本のアメリカからの独立を求める「ヤルタ・ポツダム体 制打破」を掲げて、数々の行動を提起し、一水会と共にマスコミにも頻繁に取 り上げられるようになった。 

 昭和53年の建国記念日に「紀元節奉祝」の統一行動を行って以来、私達三 人は、毎月定例の会議を開き色々話し合った。自分の団体独自の行事に加え、 共同して街頭宣伝も行った。また、「日本主義研究会」という勉強会を毎月開 催し、鈴木邦男、阿部勉、犬塚博英氏など、新進気鋭の新右翼や、右翼の長老、 荒原朴水翁、教科書訴訟の半本茂事務局長、大日本旭心団、副団長・松本効三 氏、大東塾訓育班長、川田貞二氏など、多彩な講師を招いて県内の若手活動家 育成を行った。神奈川県維新協議会の事務局長で、後に大悲会の二代目会長に 就任する蜷川正大氏や、統一戦線義勇軍の木村三浩議長なども来県して応援し てくれた。それに応える様に県内の若手を義勇軍に参加させた。私の所属する 団体も、茨城県水戸市で開かれた日教組の教研集会反対運動の際や、県内の共 産党・赤旗まつり開催反対などに統一行動を計画した。初めの頃は活気の無かっ た県内も、毎月色々な行事を継続することにより、53年頃には、ほとんど右 翼活動の無かったこの地方も、54年、55年、56年と徐々に活気が出て来 た。しかし、私は、ポスターの掲示や、勉強会、定例会議は別にして、宣伝車 による活動に重点をおいた運動の限界を感じ始めていた。

 経団連事件を契機に、新右翼など若手世代の同志を中心に「新しい日本を創 る青年集会」という緩やかな運動共闘関係も生まれ各地で集会が開催された。 また、既成の右翼運動でも、これまでの全愛会議や青年思想研究会などの連合 体や各団体が個別に行ってきた運動とは別に、核防条約批准阻止のための共闘 後、民族革新会議(山口申議長)が提唱し、北方領土返還統一行動などのテー マごとに「民共闘」という形でデモ行進するなどの一日共闘がたびたび行われ た。

 新右翼組織に入った高橋哲央=見沢知廉は、これまでの新左翼とはっきり決 別し自己の意識変革を図るため、今後は、活動家名を「清水浩司」と名乗るこ とにした。

 昭和57年(1982年)初頭、清水浩司(本名・高橋哲央=見沢知廉)は、 「統一戦線義勇軍」とその中核「一水会」へ入る。彼は、義勇軍機関紙「義勇 軍報」を発刊し、一体化されていなかった義勇軍の組織改革を断行し武装闘争 を指導した。その後、義勇軍書記長に就任すると共に一水会政治局長に就任。 活動も益々先鋭化させ、ロシア大使館、アメリカ大使館に対する火炎瓶攻撃な どのゲリラ活動を自ら率先して敢行した。フォークランド紛争勃発後、<有色 人種対白人><反英米>を掲げ、イギリス大使館を火炎瓶で放火した。しかし、 アメリカ大使館の圧力により警察当局十八番のマスコミへの情報提供がなされ ず犯行声明はもみ消されてしまった。そこで、義勇軍は4人の要人テロを計画 した。必死になった公安警察は、一水会の会員や義勇軍の幹部を24時間尾行 し、これまで新左翼にしか行って来なかったアパートローラー作戦をかけ、ス パイを送り込んだ。 

 これは、戦前の内務省特高警察が、右翼や左翼組織に常套的に行った手段で あったが、戦後は、あまり見られなかった。まれには、新左翼過激派組織に警 察のスパイが入り込んでいるという噂が流れることはあったが、それが露見す る事はなかった。連合赤軍事件で粛清された者の中に、警察の送り込んだスパ イが居たと言う情報もあるが想像の域は出ない。

 思い余った義勇軍は、9月、同志9人と共にスパイを査問し粛清して、山梨 県の富士山樹海へ遺体を埋めた。メンバーの3人は逮捕されたが、清水(高橋 =見沢)は1人だけ全国指名手配の警備網をくぐり抜け神奈川県内に潜伏した。 しかし、彼は、このまま逃走するするよりは、裁判闘争により世間の目に訴え た方が良いと考え、9月27日、出頭し逮捕された。警察署のブタ箱(留置場) に叩き込まれ、取調室と地検を何度も往復し、警察官と検事による取調べで調 書が作成され彼は起訴された。木枯らしの吹き始めた11月、小菅の東京拘置 所へ移管された。裁判や面会などの無い日々は退屈で、些細なことでも喧しく 「規則・・・規則」の拘置所生活を快適に過ごすため、政治論文や小説を書い て過ごした。

 一方、某県内では「全国植樹祭」開催が予定されていたが、某国立大学の正 門前に「天皇植樹祭爆砕」の大看板が張り出され、それを見つけた若者が駆け 込んで来た。成田空港反対運動でも過激な活動を行ったことで知られる、三派 系全学連の社青同開放派学生組織、反帝学評がこの大学自治会を牛耳っている 事は知っていた。大学側に抗議したがしどろもどろで話しには成らず看板の撤 去もされなかった。まず夜陰にまぎれて大看板を壊した。そして、熟慮の末、 自分の団体の若者を中心に突撃隊を編成し、当時流行していたCB無線を使い 直接命令指示を出し、実質的には反帝学評のアジトになっていた某大学の学生 寮を襲撃させた。襲撃は成功し、敵は狼狽した。

 植樹祭前日、ご臨席予定の天皇、皇后両陛下がご来県され市内のグランドホ テルにご宿泊された。我々は、当日ホテルを出て植樹祭会場へ向かわれる天皇、 皇后両陛下を万歳の声でお出迎した。社青同開放派・反帝学評はデモを予定し ていたので、このデモ隊を直接襲撃する計画を立てていた。しかし、彼等が実 力行動に出ず、デモのみで終わった場合は、襲撃はしない事にしていた。当日 は何事も起こらなかった。しかし、今後のこともあり、その後も県内の新左翼 組織の情報収集を行った。部落開放同盟の都道府県連は、中核派の所属する革 命的共産主義者同盟(革共同)がほとんどの地連を押さえていたが、この県連 は、社青同開放派(狭間派)が入り込んでいるのも解かった。幹部連中の所在 もできる限り調べた。 

 昭和58年(1983年)3月、統一戦線義勇軍の「査問粛清事件」の裁判 は結審した。求刑は無期懲役だったが、最終弁論で「政治的な事件」の主張が 認められ実刑は12年の懲役刑となった。二週間の控訴期間の後、初犯房であ る新舎から送り房である南舎へ移された。初犯で24歳の彼は、年齢制限が考 慮され川越少年刑務所へ送られた。その後、予定通り長期受刑者の収容先であ る千葉刑務所へ移送された。過去、ここには、数多くの政治犯が収容された事 は知っていた。面識は無いものの、道の先輩である、新右翼の教祖と目される 野村秋介氏も12年間の獄中生活をここで送ったのだと感慨深かった。 

 その野村秋介氏が府中刑務所を出所した。「野村秋介戦線復帰記念・新しい 日本を創る青年集会」第一弾・横浜集会(蜷川正大氏らが実行した)を皮切り に、第二弾は、私が立案し、県内の護国神社会館で開催した。その後、この集 会は各地で開催され。これを契機に右翼運動は、新しい時代に入っていった。 
(思川清風)

おもいかわ・せいふう


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