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切通理作(評論家) 転載元:切通理作の部屋


2005年9月11日(日) 文学に殉死した男

 見沢さんと初めてお会いしたときのことは拙著『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)での見沢知廉ロングインタビュー&批評「戦争しか知らない子どもたち」の冒頭に書いたとおり。
 その瞬間から、彼の少年っぽさ、親しみやすさ、そして文芸へのまっすぐな情熱に惹かれた。
 見沢論を書かねばと思った。たぶん僕の文章は初めての本格的な、あの時点での「見沢知廉総論」だったと思う。彼が書いた小説や文章は紙の切れ端まで貸してもらって、取りつかれたように見沢氏の軌跡を追った。
 私はいまでも『天皇ごっこ』は新日本文学賞に応募したショートバージョンの方が好きである。獄中の制限下で書かれた、描写そのものがリビドーになっているかのようなたたきつけるようなカタルシス。
 あの作品を読んで、本人と話したときの、なにか恋をしてしてしまったかのような信憑は明瞭に手触りとして残っている。
 きっとさまざまな人にそれを感じさせる感応能力があった人だと思う。
 彼がその後目覚しい活躍をしたのは、獄中12年という話題性ばかりでは決してない。
 
 彼の死が唐突に感じられたと言えば嘘になる。
 もうずいぶん前から人前に出ていなかったのは多くの人が語っているとおりだ。僕と一緒に出る予定のトークショーを彼がドタキャンしたこともある。ただ最近はふたたび人前にも出るようになり、本格的な活動を再開していたと聞く。

 僕は彼が文学に殺されたのだと思っている。
 『調律の帝国』は厳格かつ非情な刑務官に父親を見出し、絶対視して自分を漂白していく囚人の話だったが、彼はそれを書く段階で、文芸誌の名物鬼編集者によって数十回の直しを要求され、それに必死で応え脳疲労で入院したと自ら語っていた。この作品では、三島賞を狙っていた。
 しかし数度ならともかく、数十回の直しというものが本当に的確なものだったのだろうか。そこまで直しを続ければ自分がなにを書いているのかわからなくなってしまう段階もあっただろう。
 当時の見沢氏の文章力が稚拙だったとは思われない。ノンフィクション『囚人狂時代』のあの一気に読める面白さはどうだ。額縁に収めたような純文学なんぞに頼らなくても、十数万部の部数を稼ぎ出していたのだ。
 その彼が、文学という「父親」に向かって自分を投げかけていった。幾多の政治遍歴を持つ彼だが、三島由紀夫と違い政治ではなく文学に殉死した。
 もちろん彼が選んだことだ。
 だがその彼に文学の世界はなにをしたのか。文学の世界にたずさわっていると自認する人は、全員胸に手を当てて考えてもらいたい。

 最初の新日本文学会にしてからが「天皇ごっこ」の受賞に難色を示すメンバー間の分裂があり、まるでかついだ神輿を下に叩きつけるような仕打ちを受けた。
 だが政治活動では数々のテロ行為をしてきた彼は、文学の世界での自分の扱いに一言の抗議もしなかった。
 そしてひたすらチャレンジし続けた。

 あるパーティで江藤淳(故人)に話しかけようとしたら、「お前が声をかけるのは十年早い」と文芸編集者に言われたと、むしろ愉快そうに笑っていた見沢さん。
 彼ほど文学を愛した人はいなかったと思う。


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