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深笛義也(ライター) 転載元:好きなだけ眠る


文学犯・見沢知廉

その夜を降らずの雨に濡れきしむ
君は馬上のゆふがほの花
辰巳泰子

一昨日、新宿ロフトプラスワンで、見沢知廉を追悼するイベントが行われた。
様々な人々の声を聞き、見沢への思いが広がった。

私と見沢知廉とは、成田闘争で出会った。
成田闘争とは、成田空港建設に反対するものだ。これについては、おびただしいほどの文献があるし、ウェブ上でも知ることができるだろう。様々な見方もあるので、ここでは詳しく説明しない。
1978年の3月に、政府は成田空港を開港すると宣言した。
開港前の3月26日、空港反対派の数千人の部隊が、いわゆる空港包囲突入占拠闘争を実現。空港の心臓部である管制塔まで乱入し管制機器を破壊、3月開港は不可能になった。その数千の部隊の中に、私と見沢はいた。
空港開港は5月20日となった。
私は組織の者から電話をもらい「野戦病院に入ってほしいから、早めに現地入りしてほしい」と言われる。電話は公安警察に盗聴されているというのが、我々の常識だ。電話だから野戦病院と言ってるが、今度は自分が管制塔に突入するのだ、ヒーローになれる! と思った。
現地に行ってみると、本当に野戦病院だった。そこに見沢もいた。
野戦病院とは闘争で出た怪我人の手当をするところで、農家の土地にテント張りで設営されたものである。
反対派の戦闘部隊が空港への突入を試みた場所は、野戦病院からは遠く離れた場所だった。怪我人は一人も来なかった。
最初の日に私と見沢は農家に炊飯器を借りに行ったのだが、中の釜を置き忘れてしまい、また取りに行った。野戦病院は超党派で組まれているので、様々な党派やノンセクトの人々がいる。炊飯器を運ぶのに2往復もしたということで、私と見沢は他のセクトの人々に批判された。また、1週間のうちの怪我人といえば、私が調理の時に包丁で指を切っただけで、そのことも揶揄気味に批判された。
怪我人が来ない間も、皆一所懸命に三角巾の使い方とか鍼灸の打ち方の練習をした。私と見沢はしばしば抜け出して、寝そべりながらキャンディーズや岩崎宏美の話に興じていた。批判されてもしかたがなかった。

80年になって、見沢は右翼に転じていく。
左翼では民衆の心をつかめないので右翼に行く、という理由だった。
なんじゃそれは? と私は思った。左翼思想が正しいと思っているからそこに民衆を引きつけようとしているのであって、民衆の向くほうに行くというのが分からなかった。
私は沢木耕太郎の「テロルの決算」を読んで山口二矢の心情に打たれていたし、中学生の時には三島由紀夫にはまり「豊饒の海」全4巻も読んでいた。
右翼を敵だとは思っていなかったが、それでも見沢の行動は珍奇に見えた。

組織の情報網を通じて、見沢が殺人犯として指名手配され、出頭、逮捕され、やがて服役したということは、逐一知ることができた。
私のその時の気持は、ああ、あいつも終わったか、という酷薄なものであったことを、ここに告白しておく。

彼と再会するまでには、長い年月がかかった。
私は87年、成田闘争で逮捕され、千葉刑務所に拘置される。その時、見沢もそこにいた。もちろん、会ったり話したりはできない。
私は88年、組織とも左翼思想とも決別した。

94年に見沢は獄中で新日本文学賞を受賞し、私の酷薄な思いは、みごとに裏切られた。
私はその頃、ライターを生業としながら、小説をものにしようと考えていたので、正直、やられた! と思った。
「獄の息子は発狂寸前」の紹介を「ペントハウス」という雑誌に私が書いたところ、編集部にお礼の葉書が彼から来て、出版社で会った。それから、付き合いが始まった。

「実は俺も小説を書いてるんだよ」と私が言った時に、見沢がすごく嬉しそうな顔をした。どこかビジネスライクだった付き合いから、また友情が始まったのだ。

昨年彼は怪我をして入院した。退院後に会いに行くと、怪我自体はひどいものだった。だが、入院によって抗鬱剤への依存が切れ、一時は何をいっているのか分からなかったのが、喋り方がはっきりしていた。また、彼の字の汚さは宮崎勤にさえ文句を言われたほどだが、読める字になっているのには本当に驚いた。

今年に入ってからはさらに元気になり執筆意欲も高まり、このまま復活してくれるものだろうと私は思っていた。
自殺という事態にありがちなように、多くの人々はその理由を絶望に求める。しかし見沢には絶望する理由はなかった。最後まで、書こうとして闘っていたのだ。

見沢とは多くのことを誓い合っていたので、無念である。

三島由紀夫の自決を「茶番だ」と決めつける左翼活動家を見て、「こいつらは人間の心が分からない」と思ったのが、見沢が左翼から離れるきっかけだったと、この度、鈴木邦男さんから聞いた。
少なくとも私だったら、そんなことは言わなかっただろう。見沢が、キャンディーズではなく三島のことを語りかけていたら、私の人生も彼の人生も、変わったものになったのかもしれないと、ふと、思ったりもした。どちらがよかったのかは、確かめようもない。

見沢は自分のことを「政治犯」だと言い張っていたが、本当は「文学犯」だったのではないかと、今思っている。


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