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藍川京(官能作家) 転載元:官能作家「お京」だよ〜


2005年09月08日 見沢知廉死去

見沢知廉が亡くなった。 昨日の夕方マンションから投身自殺したらしい。 はっきりしたことはわからないけれど、どうもそうらしい。 今日になって睦月影郎氏が知らせてくれ、未遂ならいいけれどと思ったけれど、2度目の連絡では亡くなったらしいとのこと。 インターネットで調べて、昨日の5時半ごろ飛び降りたらしいとわかった。 「酷いこと書くなあ、僕は生きてますよ」と連絡してくれたら嬉しいけれど……。 まだ46歳。早すぎる。

「天皇ごっこ」が出てから10年。
以後出た「獄の息子は発狂寸前」「囚人狂時代」には下手な字で藍川京様とサインしてある。
彼の字はどうしようもなく下手で、手紙を読むのも大変だった。
かつて私が所属していた「現代文芸」という全国規模の同人誌にも入っていたことがある。
同じ文芸家クラブ、文芸家協会の会員でもあり、そのパーティでも顔を合わせた。
ホストクラブに行けばもてるような端正な顔立ち。
意外とお酒は一滴も飲めなかった。
私の本名は彼の母親と同じ名前だ。
そのこともあり、よく説教した私を、母親か姉のようだと手紙に書いてきたことがあった。
実の弟を亡くした気がする。
「一度死んだら生き返れないんだよ。バカだね」
彼の写真に言ってやったけれど、いろいろ辛かったのはわかる気がする。発作的だったのではないか。
パニック障害で私もそういう気分になったことがあるので、それなら仕方ないとしか言えないけれど……。
見沢知廉はいつも笑っていた。
だから笑顔しか思い出せない。
それがよけい哀しい。

2005年09月09日 在りし日の見沢知廉

[藍川京さんと見沢知廉氏]

東京會舘での文芸家協会のパーティで見沢知廉と。
もっといい写真があったはずだけれど……。
私の知る限り、いつ会ってもホストクラブの男といっていいマスクと服装だった。そういえばラフな格好をしている彼を覚えていない。
12年の拘禁生活で精神的な障害がいろいろ出ていたので、それから立ち上がれなかった(回復しなかった)のかもしれない。
体調が悪いとは以前から言っていたので、行きつけの新宿のカイロプラクティックを紹介したこともある。何回目かの予約のとき、突然倒れたから行けずに、以後、そのままになっていると言っていた。

世間知らずだったけれど素直で、どんなにきついことを言っても耳を傾けるところがあった。
私は手紙に記念切手しか使わない。彼も切手マニアで、必ず記念切手を貼ってきた。
お金がないと言いながらハガキに80円の記念切手を貼ってきたとき、お金がないならこんな贅沢はするなと私は怒った。たった30円のことだけれど……。
こんなことになるならもう少しやさしくしてやればよかったと思うけれど、それで事態が変わったとは思えないし。
指を切断したと書いてきた手紙も、あまりにも字が下手で、それを手にした日はいくら読もうとしてもついに読めなかった。しばらくして読み返して初めてわかった。それほど字が下手で、読むのが大変だった。もう一度挑んでも全文読めるかどうかわからないけれど、落ち着いたらぼつぼつと読み返してみようと思う。

母上と弟さんと彼女の今の心中を思うと溜息ばかり。
お馬鹿さんだな……。
葬儀に出たいと思ったけれど家族だけでというのをインターネットで見つけ、お香典だけにした。もう一度会いたかったけれど……。

気を取り直して、私はまたせっせと仕事をしなければ。
来週中に東スポ5カ月連載の冒頭を出さなければならないのに、まだ何を書くか決めていないし、内心、やや不安になっている。


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